日本歴史地名大系 「山前庄」の解説
山前庄
やまさきのしよう
立庄の時期・事情などは不明だが、「民経記」寛喜三年(一二三一)一〇月九日条などに金剛勝院領山前庄とみえるから、鳥羽院領から皇后美福門院創建の山城
山前庄の本家職は道尊ののち後高倉院の皇女式乾門院などを経て、後堀河天皇第一皇女暉子内親王(室町院)へと伝領され、室町院領の一となる。この間「兼仲卿記」建治元年(一二七五)一〇月・一一月巻裏文書に山前庄の仏事用途対捍に関する史料数点がある。正応四年(一二九一)五月三〇日には金剛勝院領近江国山前庄を室町院が元のごとく管領するようにという伏見天皇綸旨(弘文荘待賈書目三六号)が出されており、式乾門院遺領をめぐり対立があったことが推測される。正安二年(一三〇〇)室町院が没すると、山前庄を含む室町院領は、持明院・大覚寺両統の皇位継承と所領争いの核となる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報