山前庄(読み)やまさきのしよう

日本歴史地名大系 「山前庄」の解説

山前庄
やまさきのしよう

きぬがさ(観音寺山)の東麓一帯にあった。庄名はその立地から「やまのまえ」と読むこともあったらしい(弘安七年六月日「尼正戒田地売券」三浦周行氏所蔵文書)。一二世紀初期―中期の鳥羽院政期には五個庄ともよばれ、みなみ庄・北庄・東庄、橋爪はしづめ(七里村)新八里しんはちり庄の主要な五庄のほか、善覚寺ぜんかくじ新日吉しんひよし庄・本日吉もとひよし神田などで構成されていた。庄域は「輿地志略」には川並かわなみ金堂こんどう市田いちた・北ノ庄・七里しちり石馬寺いしばじ位田いんで石川いしかわ五位田ごいで下日吉しもひよし町屋まちやの一一ヵ村をいうとし、「琵琶湖志」「木間攫」もほぼ同地域にあてている。なお「輿地志略」は川並・金堂・市田・北ノ庄・七里の五ヵ村が繖山の前に並んでいることから山前五個庄とよんだとしている。

立庄の時期・事情などは不明だが、「民経記」寛喜三年(一二三一)一〇月九日条などに金剛勝院領山前庄とみえるから、鳥羽院領から皇后美福門院創建の山城金剛勝こんごうしよう院領となった庄園の一。その後後白河院領を経てその皇女殷富門院(亮子内親王)へと伝えられ、さらに以仁王(高倉宮)の子で京都仁和寺の安井宮僧正道尊に譲与された(年未詳「長講堂領等諸庄注文」東寺百合文書)。応保元年(一一六一)六月五日の妙香院庄園目録(華頂要略)にみる山前新日吉庄処分の記載が、山前の庄名のみえる早い史料で、この時期すでに領主の異なるいくつかの庄に分れていたことが推察される。弘安三年(一二八〇)二月二二日、山前庄の公文・下司等八名の庄官が庄園の管理と経営についての協力を申合せ、庄務の処理などについて規約を制定している(「近江山前庄庄務職置文」筑波大学所蔵文書)。この置文の内容は、年貢や公事の納入を懈怠なく勤仕することや、未進が生じた場合の弁償と徴収など多岐にわたり、全体的に本所に対する忠労が強く喚起されている。

山前庄の本家職は道尊ののち後高倉院の皇女式乾門院などを経て、後堀河天皇第一皇女暉子内親王(室町院)へと伝領され、室町院領の一となる。この間「兼仲卿記」建治元年(一二七五)一〇月・一一月巻裏文書に山前庄の仏事用途対捍に関する史料数点がある。正応四年(一二九一)五月三〇日には金剛勝院領近江国山前庄を室町院が元のごとく管領するようにという伏見天皇綸旨(弘文荘待賈書目三六号)が出されており、式乾門院遺領をめぐり対立があったことが推測される。正安二年(一三〇〇)室町院が没すると、山前庄を含む室町院領は、持明院・大覚寺両統の皇位継承と所領争いの核となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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