1872年(明治5)に起きた山城屋和助(わすけ)の陸軍省公金費消事件。長州藩の奇兵隊隊長であった横浜の貿易商山城屋和助(本名野村三千三(みちぞう))は、同郷の山県有朋(やまがたありとも)の下で御用商人となり、生糸貿易を営み、諸省に出入りして巨富を蓄えた。ところが生糸相場で失敗、陸軍省公金60万円余の不正融資を受け、1871年12月にその金で洋行した。しかしパリで豪遊していたことから疑惑がもたれたため、陸軍大輔(たいふ)山県有朋の電報で帰国したが、返済不能のため1872年11月29日陸軍省の教官詰所で自殺した。関係書類はいっさい焼却済みであったが、山県への疑惑は強く、1873年4月に起きた三谷三九郎(みたにさんくろう)事件とも相まった司法卿(しほうきょう)江藤新平の厳しい糾明もあって非難が収まらず、同年4月、ついに山県は陸軍大輔をも辞任して責任をとった。明治初年の軍部の腐敗ぶりを反映した汚職事件である。
[加藤幸三郎]
明治初年の陸軍部内の汚職事件。陸軍省御用商山城屋和助は長州藩奇兵隊の出身で,同じ奇兵隊出身の山県有朋と親しく,兵部大輔のち陸軍大輔の山県を通じて陸軍省官金約65万円の不正融資を受けた。名目は輸入物仕入代金であった。これを流用してパリで豪遊していることが外務省の報告により問題化し,山県はあわてて返却を要求したが,山城屋はこれに応じることができず1872年(明治5)11月陸軍省内で割腹自殺した。これにひきつづいて73年4月には三谷三九郎事件が起こった。これも陸軍省公金を流用して,同省御用商三谷家の手代が投機に失敗した事件である。この両事件により陸軍とくに山県への批判が厳しく,反長州的な司法卿江藤新平の追及もあり,同年4月山県は陸軍大輔を辞任した。しかし,西郷隆盛の庇護もあって山県は6月初代陸軍卿(それまで卿は欠員)となり,事件の真相は解明されないままとなった。
執筆者:田村 貞雄
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…政治問題として社会的に大きく取りあげられ,ジャーナリズムによる声高な批判を代償として,刑事事件としては訴追されることがきわめて少ないのが疑獄事件の特徴といってよい。 明治初期においては,山県有朋が関与したといわれる山城屋事件など,藩閥政府と政商とが特権の供与をめぐって直接結びついたケースがあり,多くは表沙汰にならなかった。しかし北海道開拓使官有物払下事件は,大隈財政や薩派の積極主義を焦点に,明治14年の政変と称される政治変動を引き起こした。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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