明治維新を担った薩長土肥(さっちょうどひ)とくに薩長両藩出身の政治家が権力を独占した政治形態。反対派によって使われた呼称。廃藩置県のころから四藩閥が明治新政府の中枢および地方官などの要職を掌握、征韓論での分裂、明治十四年の政変(1881)などを経て薩長二大藩閥の権力独占が完成した。この下で大日本帝国憲法体制への移行が図られ、藩閥勢力は内閣および官僚組織のほか軍部、枢密院、貴族院などの国家機関を支配下に置いた。藩閥の最高指導者の伊藤博文(ひろぶみ)(長州)、黒田清隆(きよたか)(薩摩)、山県有朋(やまがたありとも)(長州)、松方正義(まつかたまさよし)(薩摩)らは、憲法外の機関である元老として権力の中枢にあり、自ら初代~第7代および第9、10代の首相となった。彼らは後世の専門官僚出身の政治家に比して、各分野に精通し広い視野をもっていたといわれる。陸軍は長閥、海軍は薩閥というように内部対立もあったが、外部に対しては団結した。初期議会においては政党および民衆の意見を度外に置く超然主義政治を強行したが、軍拡を含む財政の拡大には衆議院の同意が不可欠であったため、政党勢力との妥協が必然となった。日清(にっしん)戦後になると、伊藤系勢力は政党との公然たる提携に踏み切り、さらに1900年(明治33)立憲政友会を結成して政党政治への修正を図った。しかし同じ長閥の山県系勢力はこれを拒否し、軍部大臣現役武官制の導入、文官任用令改正などにより政党勢力の内閣および官僚組織への進出を抑え、さらに軍部の政治的独立を策した。大正期、二次にわたる憲政擁護運動の展開、山県らの元老の死去などによって、藩閥の権力は大きく動揺した。また帝国大学や陸軍士官学校などで養成される後継の天皇制官僚が権力中枢に進出してきたが、彼らは全国各地から選抜されており、藩閥意識は希薄であった。最後の元老西園寺公望(さいおんじきんもち)(公家(くげ)出身)の力もあって、1924年(大正13)の護憲三派内閣以降は政党内閣の慣行が生まれ、藩閥政治は終焉(しゅうえん)した。
[阿部恒久]
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…主として薩摩,長州,土佐,肥前の出身者による人的な結合が藩閥で,とりわけ薩長を中心に独占された明治政府を藩閥政府という。この藩閥政府によって政治的利害が左右される政治が藩閥政治である。 1867年(慶応3)12月9日の〈王政復古の大号令〉によって成立した維新政府は,当初,皇族・公卿・雄藩大名や有力な藩士によって組織されたが,版籍奉還(1869)から廃藩置県(1871)にいたる過程で改革を重ねるにしたがい,薩長土肥の有能な藩士,つまり,大久保利通,西郷隆盛(ともに薩摩),木戸孝允,伊藤博文(ともに長州),板垣退助,後藤象二郎(ともに土佐),江藤新平,副島種臣,大隈重信(以上,肥前)らが主導権を握り,これに維新変革に参画した三条実美,岩倉具視らの公卿が調停的存在として例外的に加わった。…
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