藩閥政治(読み)はんばつせいじ

  • はんばつせいじ ‥セイヂ
  • はんばつせいじ〔セイヂ〕

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

一般には特定の藩 (封建的領国) 出身者の排他的,朋党的結合であるが国民国家の政治を左右する政治形態で,特に日本近代史上明治期にみられた薩摩長州出身者によるものをいう。この両藩が明治維新に果した役割から,木戸孝允,大久保利通,西郷隆盛,山県有朋伊藤博文,黒田清隆,井上馨,松方正義ら両藩出身者が明治政府の中枢を占め,彼らは親兵制度の創設,廃藩置県の断行などによって,権力を固めた。当初の明治政府は大隈重信,江藤新平,板垣退助,後藤象二郎ら薩長以外の出身者をもその中枢にかかえていたが,相互間の権力闘争はやがて薩長両藩出身者以外の者を排除していった。明治十四年の政変以後明治政府の政策決定はすでに亡き大久保,木戸を除き,山県,伊藤,井上,黒田,松方らいわゆる維新の元勲たちによってになわれ,内閣制創設後は彼らが交互に内閣を担当した。藩閥政治は自由民権運動の厳しい批判にさらされながらも憲法を制定し,国会を開設することによって,みずからの主導権をあくまで守ろうとしたのである。しかし,本来藩閥政治は維新の活動家のための政治形態であったがゆえに,明治維新における革命的活動家の減少とともに藩閥政治を維持する力もまた減退していくことは自然のなりゆきであった。閥族打破の声の高まりのもとで,1913年桂太郎が,22年山県が死去。そして 24年6月,山県配下の清浦奎吾内閣が倒壊し,加藤高明内閣が成立することによって明治維新以降日本を支配した藩閥政治は潰えたといえる。

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百科事典マイペディアの解説

明治維新を主導した薩摩,長州,土佐,肥前,4藩の指導者層が各出身藩に依拠して形成した派閥を藩閥といい,これを中心とする政治を藩閥政治という。征韓論争以後大久保利通(薩摩),伊藤博文(長州)を代表とする薩長閥が勢力を拡大,明治14年の政変で大隈重信(肥前)を追放して自由民権運動に対決した。1885年伊藤の初代内閣組織とともに薩長閥は実権を掌握,軍部・警察・財界にも派閥を形成,特に軍部は陸の長閥,海の薩閥といわれた。のち薩長出身元老が政権交替の実権を握り護憲三派内閣(加藤高明内閣)の成立まで藩閥政治は続いた。
→関連項目開拓使鹿児島藩官僚政党内閣中野正剛萩藩三宅雪嶺山県有朋山城屋事件

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

明治維新を担った薩長土肥(さっちょうどひ)とくに薩長両藩出身の政治家が権力を独占した政治形態。反対派によって使われた呼称。廃藩置県のころから四藩閥が明治新政府の中枢および地方官などの要職を掌握、征韓論での分裂、明治十四年の政変(1881)などを経て薩長二大藩閥の権力独占が完成した。この下で大日本帝国憲法体制への移行が図られ、藩閥勢力は内閣および官僚組織のほか軍部、枢密院、貴族院などの国家機関を支配下に置いた。藩閥の最高指導者の伊藤博文(ひろぶみ)(長州)、黒田清隆(きよたか)(薩摩)、山県有朋(やまがたありとも)(長州)、松方正義(まつかたまさよし)(薩摩)らは、憲法外の機関である元老として権力の中枢にあり、自ら初代~第7代および第9、10代の首相となった。彼らは後世の専門官僚出身の政治家に比して、各分野に精通し広い視野をもっていたといわれる。陸軍は長閥、海軍は薩閥というように内部対立もあったが、外部に対しては団結した。初期議会においては政党および民衆の意見を度外に置く超然主義政治を強行したが、軍拡を含む財政の拡大には衆議院の同意が不可欠であったため、政党勢力との妥協が必然となった。日清(にっしん)戦後になると、伊藤系勢力は政党との公然たる提携に踏み切り、さらに1900年(明治33)立憲政友会を結成して政党政治への修正を図った。しかし同じ長閥の山県系勢力はこれを拒否し、軍部大臣現役武官制の導入、文官任用令改正などにより政党勢力の内閣および官僚組織への進出を抑え、さらに軍部の政治的独立を策した。大正期、二次にわたる憲政擁護運動の展開、山県らの元老の死去などによって、藩閥の権力は大きく動揺した。また帝国大学や陸軍士官学校などで養成される後継の天皇制官僚が権力中枢に進出してきたが、彼らは全国各地から選抜されており、藩閥意識は希薄であった。最後の元老西園寺公望(さいおんじきんもち)(公家(くげ)出身)の力もあって、1924年(大正13)の護憲三派内閣以降は政党内閣の慣行が生まれ、藩閥政治は終焉(しゅうえん)した。[阿部恒久]

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精選版 日本国語大辞典の解説

〘名〙 明治維新後の新政府で、薩摩・長州・土佐・肥前の四藩、特に薩長二藩の勢力が圧倒的に大きく、これによって行なわれた政治に対して、反対派がつけた称。
※薩長土肥(1889)〈小林雄七郎〉緒論「藩閥政治の弊習を救治するに於て何の益する所あらんや」

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

明治時代,薩・長・土・肥4藩(特に薩長)出身者が派閥をつくり,政治権力を独占したことに対する呼び名
明治維新に中心的役割を果たした薩摩・長州・土佐・肥前4藩の出身者が,特に廃藩置県後は政府の中心となっていたが,征韓論をめぐり分裂し,明治十四年の政変以後は薩長出身官僚が実権を握った。これに対し民権派は藩閥専制として政府を攻撃した。日清戦争(1894〜95)後,政党勢力が伸長し,第1次護憲運動では「閥族打破」が叫ばれ,1918年原敬内閣の成立以後藩閥政治は衰退した。

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世界大百科事典内の藩閥政治の言及

【藩閥】より

…主として薩摩,長州,土佐,肥前の出身者による人的な結合が藩閥で,とりわけ薩長を中心に独占された明治政府を藩閥政府という。この藩閥政府によって政治的利害が左右される政治が藩閥政治である。 1867年(慶応3)12月9日の〈王政復古の大号令〉によって成立した維新政府は,当初,皇族・公卿・雄藩大名や有力な藩士によって組織されたが,版籍奉還(1869)から廃藩置県(1871)にいたる過程で改革を重ねるにしたがい,薩長土肥の有能な藩士,つまり,大久保利通,西郷隆盛(ともに薩摩),木戸孝允,伊藤博文(ともに長州),板垣退助,後藤象二郎(ともに土佐),江藤新平,副島種臣,大隈重信(以上,肥前)らが主導権を握り,これに維新変革に参画した三条実美,岩倉具視らの公卿が調停的存在として例外的に加わった。…

※「藩閥政治」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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