山崎新田
やまざきしんでん
[現在地名]宇都宮市宝木町・駒生町・大谷町
東は細谷新田、北・西・南の三方は駒生村に接する台地上の平坦地。寛文一〇年(一六七〇)宇都宮城下の西原八三〇町を開墾して成立した新田村の一つで、宇都宮藩領。元禄四年(一六九一)より年貢銭納。同一〇年の差出帳(五月女久五文書)では畑高八石七斗、年貢は金一両に取米三石替、金一分に一貫文替、目銭四〇文、家数七、庄屋半兵衛。元禄郷帳に駒生村枝郷とあり、高一〇石余。正徳年間(一七一一―一六)の宇都宮領村々諸割物高付覚帳(五月女久五文書)では細谷・中丸新田と一緒で、堰川除用水溜池往還人馬勤高四四石余。
山崎新田
やまさきしんでん
[現在地名]岡山市山崎
倉富新田・倉益新田の北にあり、南西は湊村、北辺を倉安川が西流する。操山と笠井山の間、円山南方の葦原を寛文年中(一六六一―七三)に開発した新田村で(上道郡誌)、村名は円山の先にあたることによると伝承される。「備前記」によると平場の集落で、朱印高のほかと注記され、高七〇五石余、元禄一三年(一七〇〇)の新御絵図には円山村の内とあったと記される。「備陽記」では田畑四二町七反余、家数一七・人数一〇〇。
山崎新田
やまざきしんでん
[現在地名]静岡市山崎一―二丁目・千代一丁目
安倍川とその支流藁科川との合流点に位置し、安倍川対岸は安西外新田。「修訂駿河国新風土記」によると、慶安年中(一六四八―五二)千代村の庄左衛門が駿府町奉行落合小平治から暇をとり、のち芝地を開発したのが当村の始まりという。幕府領として幕末に至る(国立史料館本元禄郷帳・享保一六年駿府代官所村高帳など)。元禄郷帳では高三八石余。旧高旧領取調帳では幕府領五七石余。
山崎新田
やまざきしんでん
[現在地名]三条市長嶺
長嶺村の南、丘陵沿いに位置し、南は吉野屋村(現南蒲原郡栄町)、西は袋村と接する。丸山という小丘陵があり、通称城の越とよばれる。この一帯は中世土豪の館があったとみられ、坏や甕などの土師器が出土している。元禄一二年(一六九九)の大面組新村付帳(新発田市立図書館蔵)によると、吉野屋村を親村として同村の地方を正保三年(一六四六)に開発して立村。
山崎新田
やまざきしんでん
[現在地名]大和町山崎新田
茗荷沢新田の北、東は山崎村、北は芋川村・赤羽村、西は八色原。山崎村の枝村。寛永二一年(一六四四)の開発と伝える(大和町史)。天和三年郷帳では高八八石九斗余。宝暦五年(一七五五)の村明細帳(小千谷市立図書館蔵)では山崎村と一村扱い。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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