山本悍右(読み)やまもとかんすけ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山本悍右」の意味・わかりやすい解説

山本悍右
やまもとかんすけ
(1914―1987)

写真家。シュルレアリスムの芸術理念の強い影響下に、前衛的な写真表現を追求した。本名山本勘助。名古屋市で写真機械商を営む家に生まれる。1929年(昭和4)、名古屋市立第二商業学校を卒業後上京し、アテネ・フランセでフランス語を学ぶ。30年ごろより詩作を始め、春山行夫(ゆきお)らによるモダニズムの詩誌『詩と詩論』や、日本におけるシュルレアリスムの理論的指導者山中散生(ちるう)(1905―77)らが名古屋で発行していた詩誌『CINE』を通じ、当時海外で展開されていたダダ、シュルレアリスムの文学や美術に関心を抱く。31年ごろ、シュルレアリスムを写真によって実践することを目指し、写真制作を始め、名古屋の写真家集団「独立写真研究会」に入会。32年同会の機関誌『独立』に、新聞の断片と女性の唇の写真をコラージュし、社会批判とエロティシズムを交錯させた作品『或る人間の思想の発展…靄(もや)と寝室』などを発表。37年に滝口修造、山中らが開催した「海外超現実主義作品展」(東京、京都、大阪などを巡回)でエルンストキリコ、ダリらの作品から触発されたことをきっかけに、画家下郷羊雄(しもざとよしお)(1907―81)や山中らと「ナゴヤアバンガルド倶楽部」を結成。38~39年シュルレアリスム詩誌『夜の噴水』を編集発行する。39年写真家坂田稔(1902―74)、下郷、山中らと「ナゴヤ・フォトアバンガルド」を結成(~1941)。また同年から、詩人北園克衛(きたそのかつえ)が主宰する「VOU(バウ)クラブ」同人となり、以後、第二次世界大戦中の空白期を経て戦後まで、同会の機関誌『VOU』に詩や写真作品の発表を続けた。47年(昭和22)に後藤敬一郎(1918―2004)らと前衛写真家集団「VIVI」を結成、49~54年前衛美術団体「美術文化協会」に参加。

 山本は写真表現において、鳥籠の中の電話機や、帽子に刺さったピンから垂れ下がる紐などの脱日常的なオブジェを撮影したものから、コラージュや多重露光によるもの、土壁や木目、水面など身近な素材のディテールを接写したものまで、さまざまな手法を駆使しつつ、繊細な詩的イメージの定着を一貫して追い求めた。1950年代以降には、連続写真による『空気のうすいぼくの部屋』(1956)などの作品や、写真をガラスの破片と組み合わせた『写真に関するスリリングな遊び』(1956)などの立体作品も手がけた。

[大日方欣一]

『「名古屋のフォト・アヴァンギャルド」(カタログ。1989・名古屋市美術館)』『「日本のシュールレアリスム 1925―1945」(カタログ。1990・名古屋市美術館)』『「シュルレアリスト山本悍右 不可能の伝達者」(カタログ。2001・東京ステーションギャラリー)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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