住宅において睡眠をとるための部屋。平安時代の寝殿造の住宅では塗籠(ぬりごめ)あるいは夜御殿(よんのおとど)、中世の主殿造では納戸(なんど)あるいは寝所、禅宗方丈(ほうじょう)では眠蔵(みんぞう)、近世の書院造では御寝間あるいは御休息、農家では納戸、そして明治以後は寝間(ねま)・寝室・ベッドルームなどの呼び名があるが、子供室のように個人の居室が勉強・遊びなどに使われるとともに寝る場所ともなる場合には、とくに寝室とはよばないのが普通である。
日本の住宅の寝室を歴史的にみると、先史時代に寝る場所となったのは竪穴(たてあな)住居である。縄文時代の早い時期には、竪穴住居の機能の第一が寝ることにあったと考えられる。同じ竪穴住居でも、弥生(やよい)時代以降のものには竈(かま)を備えるものも発見されていて、炊事・食事などがその中で行われ、寝るためだけのものではなかった。古墳から出土した埴輪(はにわ)屋では、中の機能がわかる程度につくられたものがほとんどないので、使い方まで推測することは困難であるが、美園遺跡(滋賀県)出土の埴輪屋の2階の片側にベッド状の台があり、その部分が寝るための場所であったと推定される。
儀式等の形式として寝室の状態を伝えているのは、天皇が即位して最初の秋に行われる大嘗会(だいじょうえ)に仮設される式場の中心になる悠基殿(ゆきでん)・主基殿(すきでん)で、堂と室からなる平面のうち奥の草壁で囲まれ、堂との間に設けられた扉からしか入ることのできない閉鎖的な室には、神の寝床として畳が重ねられ、その上に枕(まくら)が、足元には沓(くつ)がそろえられている。
平安時代の寝殿造の住宅では、主要な御殿である寝殿や対屋(たいのや)にあった夜御殿あるいは塗籠とよばれる部分が、その名が示すように寝室であった。寝殿や対屋では、中心となる母屋(もや)の一端に塗籠がつくられ、母屋は通常梁間柱間(はりまはしらま)二つ、桁行(けたゆき)五あるいは七つの規模であるところから、塗籠は梁間柱間二つ、桁行も柱間二つのほぼ正方形の部屋であった。この部屋は名称あるいは記録のなかに描かれている平面図からみても、壁で四方が囲まれていて1か所にだけ扉があった。この塗籠の中には、寝るための施設である調台が置かれていた。平安時代の後半には生活の場が北庇(きたびさし)や北孫庇に移っていくために塗籠も北庇に移り、中世になると母屋の塗籠が消えていく。塗籠は、物語文学にみられる描写からも、寝室であったことが確かめられる。
中世の主殿造の住宅では、寝殿造の塗籠ほどに周囲が壁で囲まれていたとは限らないが、寝室である納戸は他の部屋より強い閉鎖性を示している。室町時代の絵巻物である『慕帰絵詞(ぼきえことば)』に描かれた納戸は、小柱をたくさん並べその外側に厚い板を横に貼(は)った頑丈な壁をつくり、1か所に壁と同じ構造の頑丈な引き戸を備えた潜(くぐ)り口を設けている。ほかにも中世の絵巻には寝室のようすを描いているものがあり、『慕帰絵詞』の例ほど厳重ではないが、入口の敷居をわずかにあげ、鴨居(かもい)を通常より低めにして、小さな引き戸を用いるという特徴を備えるようになる。このような構造の寝室の遺構は、東寺(とうじ)の子院である観智院(かんちいん)の客殿にある。
近世に入ると、中世の納戸の形式は対面の場の帳台構(ちょうだいがまえ)に変化して存続する。しかし、帳台構は中世の寝室の名残(なごり)をとどめているだけで、その中は二条城の大広間などの帳台構にみられるように対面の場合の控え室で、寝室ではなかった。先の観智院客殿と同じころ建った園城寺(おんじょうじ)の子院勧学院の客殿では、居間の隣に寝室を設けているが、周囲は他の部屋と同様に襖(ふすま)である。蚊帳(かや)を吊(つ)るための環(かん)や釘(くぎ)が柱につけられていて、寝室であることがわかる。しかし、勧学院客殿では寝室は建物の中心部にあって周りが部屋で囲まれているので、他の部屋に比べると閉鎖的な感じを受ける。これに対して二条城の御座間(白書院)の寝室は主室である上段の間で、閉鎖的ではない。同様の傾向は桂(かつら)離宮の中書院でもみられ、ここでは次の間に蚊帳のための環がつけられている。
一方民家では、近世になっても寝室は壁で囲まれた閉鎖的な納戸で、その状態が明治に入っても続いていた。
現在においても、日本の住宅では畳の上にふとんを敷いて寝るのが普通である。夫婦のためには寝室が用意されるが、子供の場合には子供部屋が勉強や遊びなどの日常生活が行われるなかで寝室としても使われるのが普通である。
近代になって欧米の影響によって洋風化が進み、寝るのにベッドが用いられるようになり、部屋も板敷きになる傾向が認められるが、この傾向が強くなるのは敗戦後のことである。ベッドを使う場合には、ふとんのように使わないときにしまうことができないので、寝室あるいは子供部屋が和式の場合に比べて広くなる。
ヨーロッパの住宅で寝室としてのベッドルームが明確に独立してとられるようになるのは18世紀ごろのことであろう。それ以前の個人の居室のようすは、絵画によれば、ベッドが置かれるだけでなく、湯に入る桶(おけ)があり、さらに同じ部屋の中で会食する光景がしばしばみられ、さまざまな個人の生活のすべてが一つの部屋を共用していたと考えられる。
[平井 聖]
住宅において就寝のために使われる部屋。室内に机やたんすなどを入れ,個人的な生活を営む部屋の名称としても用いられる。日本在来の名称ではなく,西欧の生活様式が導入されて以後普及した。竪穴住居にベッド状の高い部分を設けた例が少数ながら報告されているが,現在まで発掘された縄文・弥生・古墳の各時代住居址には,寝間(寝室)をはっきり分けてつくったと認められる例はない。平安時代には上層の公家は寝殿内に御帳(帳台)という寝台を置いた。畳2枚ほどの台の上に4本の柱を立て,天井を張り,四方に帳を垂らしたもので,台の上に畳を置き,茵(しとね)を重ね,衾(ふすま)を掛けて就寝した。平安時代の末期から鎌倉時代になると,寝殿の奥に,床を一段高くし,両脇に幅の狭い袖壁をつけ,帳を垂れ,中に茵や衾を置いた部屋が絵巻物に描かれ,帳台を作り付けにしたものと考えられる。そのほか平安時代には,塗籠(ぬりごめ)が寝場所として使われるという叙述もあり,塗籠が寝室にあてられたという見方もある。しかし,塗籠の具体的な形は不明であり,それが納戸的なものであれば,寝室として使ったのは副次的な用法であったと考えられる。
室町時代の後期になると納戸が寝室として使用されたという記載が多くみられる。鎌倉時代中期の《春日権現験記》をみると,納戸は間口の半分を間柱(まばしら)で固め,半分に引手と施錠装置のついた片引戸の形で描かれている。しかし,絵巻物には多くの就寝場面が描かれているにもかかわらず,納戸で寝る描写は一つもない。これは,鎌倉時代の住宅の寝室が,貴族住宅の帳台を除いて特定の部屋を用いていなかったことを示すものと考えられる。一方,南北朝時代に描かれた《慕帰絵》には,納戸と思われる一室に刀と枕が描かれており,このころから納戸が寝室に使われはじめたことを示す例になっている。先述の記載例と考え合わせると,南北朝以降の戦乱を背景とする不穏な社会情勢が,寝室として堅固な構えの納戸を選ばせたものと考えられる。桃山時代から江戸時代の初期にかけて,納戸はその表構えが座敷の飾りの一つとして残されるが,実際の機能は通路的なものになり,寝室としては普通の座敷が使われたようである。民家においては,江戸時代の初期までは〈ねま〉〈なんど〉〈おく〉などと呼ばれ,座敷の裏に当たり,居間に隣り合った部屋が寝室に使われた所が多い。
→寝間
執筆者:鈴木 充
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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… こうした借家住いでの新居制による家族形成チャンスの拡大とともに,結婚もより自由なものとなり,婚約はもはや親族間の事項ではなく,当事者間のひそかな約束事へと変化していった。そうした下層社会層の動向とも並行しながら,職住の分離にもとづき都市上層では,個室や私寝室を設けて私生活の場を遮り,プライバシーの領域として家族の生活圏をカプセル化する動きが強まっていった。こうして,夫妻と未成人の子どもよりなる核家族を愛情関係として理想化する,近代の愛情家族像が前面に押し出されていくことになる。…
… 次に,日本では敷物と寝具とは密接な関係をもち交錯している。室の敷物の古い型が最近まで寝室に残っていた。他の室の床が板や簀の子になってからも,寝室だけは土間で,もみがらやわらしべを厚く積みあげ,その上に〈ねこだ〉〈ねござ〉〈ねごぶく〉〈にくぶく〉などと呼ぶむしろやござを敷いて,敷布は用いるが敷布団なしに寝る風が長く続いていた。…
…家族にはじまる社会組織と住居形態との対応の議論はL.H.モーガンをもって嚆矢とし,なお論じ続けられている。たとえばモーガンの扱ったアメリカ・インディアンのイロコイ族のロングハウスでは,母系リネージで結ばれた合同家族が集居し,各夫婦単位が寝室を保有していた。より一般的に大型住居と母系集団との相関関係を説く者もいる。…
…これらの生活行為は,騒がしいか静かか,活動的か静的か,家具や道具との関係で場所が限定されるかどうかによっても分類できるし,行為の頻度によって日常的行為と非日常的行為とに分類することもできる。ヨーロッパでは,生活を行為別に機能分化してとらえ,おのおのに〈食事室〉〈寝室〉といった部屋をあて,個人の場の独立性を重視するのが一般的な構成原理となっている。これに対し第2次世界大戦前の日本の住宅では,主人中心の接客を主体とする〈おもて〉と,家族の日常生活を主体とする〈うち〉とを大きく分け,おもてとなる座敷を重視するのが基本原理となっており,日常生活空間においては行為別に部屋が分化してはいなかった。…
…住宅において,衣服や家財道具,貴重品などを収納する部屋。また寝室の意味にも用いられる。古く,宮中や貴族邸などで貴重品を収納した場所を納殿(おさめどの)といった。…
…飛驒の白川郷や八丈島に〈ちょうだ〉の語が残っているのをみると,平安時代の伝統を受け継いでいるようにみえるが,平安時代の帳台(ちようだい)は周囲に帳を垂れた部屋であり,民家の寝間は《春日権現験記》に描かれた納戸の形式に類似している。納戸は本来は貴重品を収めておく所であるが,納戸が寝室として使われた事例が室町時代後期から散見するようになるので,おそらく戦国時代の不穏な世相が納戸を寝間にする習慣を作りだしたものと考えられ,寝間という機能の一致から〈ちょうだ〉という言葉が当てられたと考えられる。 一方,〈ねどこ〉〈ねじき〉などの呼び方は,近世庶民の就寝形態にかかわるところが多いと考えられる。…
…ローマ時代のベッドはギリシアと基本的には同じデザインを継承しているが,木材のほかに青銅製や大理石製も現れて,装飾がいちだんと豪華になった。ポンペイ出土の貴族住宅の遺構には,ベッドを設置した小型の寝室(ベッド・ニッチbed niche)が設けられ,カーテンなどで仕切られていたものとみられる。またプラットフォーム型のベッドをコの字形に配置したダイニング・ルームも保存されている。…
…弾力をもち,表面温度の下がりにくい板張りの床は,居住性を重視するときには,きわめて望ましい床であった。西洋建築では寝室は上階に設けられるのが通例であり,石造,煉瓦造,木造を問わず2階の床は木材で支持される場合が大半であるので,寝室などの床は構造上からも板張りとなることが多かった。板張りの床は,長い床を張る形式と,そうした荒床の上に小さな板を組み合わせて張る寄木張りの形式とが主たる方法となる。…
※「寝室」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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