山本為三郎(読み)ヤマモト タメサブロウ

20世紀日本人名事典 「山本為三郎」の解説

山本 為三郎
ヤマモト タメサブロウ

大正・昭和期の実業家 朝日麦酒社長;東京交響楽団理事長。



生年
明治26(1893)年4月24日

没年
昭和41(1966)年2月4日

出生地
大阪府大阪市船場

学歴〔年〕
北野中〔明治45年〕卒

経歴
明治45年、中学在学中に家業の山為硝子を継ぐ。中学卒業後、米国に留学。帰国の際、半自動製壜機を輸入し、大正7年、日本製壜を設立して専務に。同社が日本麦酒鉱泉を経て昭和10年大日本麦酒合併すると常務就任。大日本麦酒が戦後の集中排除法で24年に日本麦酒(現サッポロビール)と朝日麦酒に分割後は、朝日麦酒の初代社長となる。その後、会長となったが、柳宗悦、浜田庄司らの民芸運動を支援し、日本民芸館の建設に尽力。また東京交響楽団理事長も務め、ハイフェッツクライスラーシャリアピンら一流音楽家の来日演奏会の実現にも尽くした。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「山本為三郎」の意味・わかりやすい解説

山本為三郎
やまもとためさぶろう

[生]1893.4.24. 大阪
[没]1966.2.4. 東京
実業家。 1909年 17歳で父のガラス製造業を継ぎ,帝国鉱泉と瓶の供給契約を結んだ。 14年第1次世界大戦が始り瓶の原価が上がると,これを打開するためにアメリカへ渡り半自動製瓶機を購入して帰国,17年日本製瓶会社を設立した。 21年同社は帝国鉱泉,加富登麦酒と合併して日本麦酒鉱泉会社を設立,根津嘉一郎の下で常務に就任,33年日本麦酒鉱泉は大日本麦酒と合併,47年同社専務取締役。 49年に新大阪ホテル,さらに過度経済力集中排除法の適用によって大日本麦酒が2分割され,その1社朝日麦酒の社長に就任。以後数社の役員兼任,さらには中央酒類審議会委員も兼ねた。また 1920年代には友人の興行師 A.ストロークを通じて J.ハイフェッツ,F. I.シャリアピンなどの音楽家の来日公演にも尽力したほか,日本民藝館の建設にも援助するなど文化面でも功績がある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山本為三郎」の解説

山本為三郎 やまもと-ためさぶろう

1893-1966 大正-昭和時代の実業家。
明治26年4月24日生まれ。大正6年日本製壜(せいびん)を創立。合併をへて昭和8年大日本麦酒(ビール)常務。戦後GHQの企業分割指令により新発足した朝日麦酒の社長となる。音楽,民芸など文化活動にもつくした。昭和41年2月4日死去。72歳。大阪出身。北野中学卒。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「山本為三郎」の解説

山本 為三郎 (やまもと ためさぶろう)

生年月日:1893年4月24日
大正時代;昭和時代の実業家。朝日麦酒社長;東京交響楽団理事長
1966年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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