〈民芸〉という言葉は大正時代末に初めて用いられた新造語である。外国語でこれにあたる言葉がないので,フォーク・クラフトfolk-craftという言い方も日本で用い始められたのである。もっとも西洋にはフォーク・アートfolk-artとか,ポピュラー・アートpopular-artとかいう言葉は用いられているが,近ごろはピープルズ・アートpeople's artという言い方も現れ始めた。アートは〈美術〉にも用いられるが,民芸という場合は,美術品ではなく民衆的工芸をさすので,西洋の用語と多少違う。
工芸というのは実用的な生活的なもので,他の美術のように鑑賞を目的としたものではない。それゆえ工芸の美しさは〈用に即した美〉ということにその特性がある。日本で民芸という場合,この実用性を重要視するから,西洋でいうフォーク・アートやポピュラー・アートとはおのずから内容の違いが生じる。われわれ民芸運動にしたがっている者がアートという字を避けたのは,アートが主として美術品をさし,とかく個人的作品を意味するのに対し,〈民芸〉は非個人性を特色とするのであって,この無銘性にこそ,われわれは大きな価値を認めだしたのである。西洋でのものの考え方は個人中心に傾きやすく,在銘品を偏重する傾向が強いために,どうしてもアート,すなわち美術という文字を用いたがるのであろう。それゆえ内容的には,日本でいう民芸も,西洋でいうフォーク・アートも近似しているのだが,価値認識のうえからはたいへん違うのである。日本では民芸にみられる非個人性や無銘性に価値をおくが,西洋ではこの面の認識が遅れているのである。それというのも,個人中心の文化で,在銘品を尊ぶ習慣が濃いからである。もっとも日本でとくに無銘の民芸品の価値が西洋に先んじて重くみられるにいたったのは,歴史的背景がある。第1は茶の湯で,茶の湯では用器を尊び,そのうちの名器はほとんどいっさい無銘品であったのである。第2は日本は歴史が古く,したがって伝統が根強く残り,今も各地にすぐれた民芸品が数多く残る。ヨーロッパの事情は日本に比べるならはなはだ悪い。しかし民芸は過去の伝統品ばかりにみられるわけではなく,新しい時代に正しい健康な実用品,すなわち新民芸の伝統が栄えなくてはならない。この意味で民芸の必要は世界的要請だといえる。
そこで各国の美術館では,在来のいわゆる大美術品の展観ばかりでなく,しだいに民俗的な作品や,未開民族の作品などが展示される傾向が強くなってきた。特に北ヨーロッパの諸国は野外美術館の施設が盛んで,世界のさきがけをなしたが,そこに展示されているものは必然に民衆的作品が主体になる。ただしどちらかというと,集められている品々は民俗学的興味が主で,美的価値の認識による選択ではない。東京にある日本民芸館はこの点,世界のさきがけをなすもので,民衆の日常生活に交わったもろもろの無銘品の美しさをみつめて,そのまま,質のうえから取捨選択を施してある。こうした美術館は他にまだ例がない。なぜ日本からこういう動きが生まれたか,それは茶の湯につちかわれた〈日本の目〉が働いたからで,おそらく個人主義的な論理的なヨーロッパではそう簡単にはいかないであろう。つまり民芸の美への認識には直観が何より先行しなければならない。ヨーロッパは理論的であるから,民俗学の対象としての民衆作品が,ひとしお注意されているのである。民俗学と民芸学とが著しく違う点は,民俗学が経験学なのに対し,民芸学は価値学たらんとする点にある。ところが後者にはどうしても直観的基礎がいる。ここで日本の目(考える頭脳よりも,見る目)が大いにものをいって,民芸品の価値がどこよりも早く,また深く認められだしたのである。しかし世界の動静をみると,民芸美学はしだいに広められるであろう。そうして〈用と美との関係〉〈民と美との結縁〉〈無銘品の価値〉(すなわち非個人性の意義)などは今後好個の題材として論じられるであろう。ただし〈抽象論〉よりも〈具象論〉のほうが先に現れないと,種々の誤りが起こりやすい。さいわいにも日本の民芸品の物としての値うちは,ようやく海外に認められ,その輸出額は年々増大しつつあるのである。また近ごろ東京の各百貨店で競ってヨーロッパの実用工芸品を輸入し展示する傾向もはなはだ興味深い。そうしてその多くが相互的に交換展の形をとっているのも留意されてよい。
さて,民芸品の特色であるが,実用性とか無銘性のほかに,民衆性や民族性や固有性もその特色に数えられるべきで,しかもその健康性や尋常性も大いに見直されてよい。とかく近代文化は異常な変態なものに流れやすく,各国ともしだいに固有性を失いつつあり,ここに民芸への要求が起こる原因もあろう。
興味深いことは,民芸品は国民性が一方に強いが世界的共通性も強く,一種の世界語的性質をもち,これを通して各国が互いに理解し交友し合える特質をもっているのである。民芸品には東西があるままに,東西のないものがある。ここに大いにその社会的値うちがあろう。
次に民芸の〈民〉であるが,今日は民主主義が台頭し,社会主義諸国でも大衆の位置を重くみるにいたった。しかし今日まではとかくしいたげられた民衆への擁護という意味が強く,平民たるそのことへの積極的価値認識が不思議に遅れているように思うが,民芸美学は民衆性そのものの意義を認めるのであって,しいたげられたものへの弁護ではない。むしろ,けっしてしいたげられない自由性が〈平の者〉たる〈民〉にこそあることを知らせようとするのである。逆にいえば,力の圧制者にはかえって心の自由がまったく乏しいことを裏書きするものが貴族品であるといいたいのである。民芸品はけっして貴族品への反律として価値があるのではなく,それ自身のもつ自由性においてたたえられるべきであるというのが,日本における民芸論の強調する点なのである。資本家を倒して,民衆を立てようとするのではなく,民衆それ自身の本来の面目に輝きをみるのである。こうした意味でも,日本における民芸運動ははなはだ特色あるものといえよう。かつては共産主義者から,封建時代・搾取時代の過去の民芸品などなんの値うちがあろうか,といわれた。しかし民衆の心にはしいたげられても失われない自由があるということを留意したいのである。また,かつては朝鮮人から,無銘の民の手になった作品になんの値うちがあるのか,そんなもので朝鮮の美を語られては困る,と抗議をうけた。しかし凡夫にして,なおかつこんな自由な美を生みうることを誇りとすべきだと思うのである。また,ある人から,井戸茶碗を雑器というが,作者の審美眼を疑うのか,という詰問をうけた。審美眼などにとらわれていない自由が井戸の美を生んだのであるというのがその答えである。以上三つの抗議は,平の民衆をはじめからつまらぬ者と思うか,あるいは美は偉大な天才だけのものだという考えに定着しているのである。そうでなく民芸美の示唆するところは,平凡な平の民衆そのものの値うちなのである。法然は〈一文不知〉の者をかえってたたえたが,大いに理があろう。
執筆者:柳 宗悦
日本の民芸運動は,柳宗悦(やなぎむねよし)によって〈民芸〉という言葉とともにはじめられ,彼を中心とする同志的結合による活動によって発展した。白樺派の創始者の一人であった柳宗悦は,生活と深い結びつきのある工芸の世界へと情熱を向け,民衆の日常生活のなかに厳然と生きている美の世界,すなわち民衆の工芸のうちに工芸そのものの真の姿のあることを強く提唱した。その第一歩として,1926年河井寛次郎や浜田庄司とはかり,すでに集められていた民芸品を公に展示すべく〈日本民芸美術館設立趣旨〉を発表するとともに,その理論づけとして《工芸の道》を刊行した。その後正しい民芸の意義づけが,地方的な風土や伝統の問題からも論じられるようになり,31年には月刊雑誌《工芸》を発刊,各地の民芸品の紹介が活発におこなわれ,それをもとに,さらに地方の伝統的な民芸品の復興と新作活動も各地でおこなわれるようになった。34年には〈日本現代民芸品大展観〉が東京で開かれて一般の認識を高め,関心を深めた。36年には大原孫三郎の援助によって東京駒場に日本民芸館が設けられ,民芸運動の拠点が確立された。やがてこの運動の展開領域は36年と37年には北朝鮮から南朝鮮にのび,ついで38年以来沖縄調査がおこなわれ,さらに満州と華北にまで広げられた。39年にいたって《月刊民芸》が発刊されて,民芸運動はよりひろく各地に普及されることになった。日本の民芸運動は多くのすぐれた民芸品を発見し,また現存する各地の民芸品保存と育成に力をつくしてきたが,今日,この民芸の歴史と精神とを自己の制作の背景としようとする幾多の個人作家が生まれてきている。本来民芸運動が無名の職人の仕事であって個人作家の世界ではなかったことから,これを民芸運動の自己矛盾とする批判の声もあるが,民芸精神を自覚した個人作家が出てきたことは,今の社会の動きからは当然といえるであろうし,むしろこのことは今後の民芸運動の一つの課題といってよい。そしてまた,生活用具が機械生産によって画一化されている現在,郷土的な手工業的な領域をどう守り育てていくか,またニュー・クラフト・デザインをどうむかえ入れていくか,これも民芸運動の大きな課題であろう。
執筆者:村岡 景夫
第2次大戦後の日本における代表的な新劇団の一つ。正式名称は〈劇団民芸〉。1950年,〈民衆芸術劇場〉(1947創立)を解消・発展するかたちで,宇野重吉(1914-88),滝沢修(1906-2000),森雅之(1911-73),岡倉士朗(1907-59),北林谷栄(1911-2010)らによって創立された。久保栄,三好十郎,木下順二らの創作劇や,A.ミラー《セールスマンの死》,《アンネの日記》,イプセン《民衆の敵》,A.N.アルブーゾフ《イルクーツク物語》などの翻訳劇で地歩を固め,昭和20年代,30年代を通じ,新劇界の中枢的劇団として多くの人々に親しまれた。同劇団ではほぼ一貫して,俳優・演出家の宇野重吉が組織面,運営面にいたるまでの中心的役割を果たしてきたが,71年には三十数人の大量脱退者を出している。
執筆者:川添 裕
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
民衆の工芸品の略語。民衆の間でつくられた日常の生活用具のうち、機能的で健康な美しさをもつ工芸品とその制作活動。大正末期(1920年代)に柳宗悦(むねよし)によって提唱された。それまで下手物(げてもの)とよばれて美術の分野から無視されていた日用雑器に光をあて、手仕事のよさと美的な価値を認めようというもの。朝鮮、沖縄や日本各地の江戸時代から昭和初期の民芸品が特集形式の雑誌『工芸』(1931~51、全120冊刊行)などに紹介され、1936年(昭和11)には東京・駒場(こまば)に日本民芸館が設立されて、民芸運動の拠点となった。この運動の代表的作家河井寛次郎(かんじろう)、浜田庄司(しょうじ)、芹沢銈介(せりざわけいすけ)らの国画会による実作活動や、バーナード・リーチら海外作家の共鳴によって人々の関心を集め、民芸運動は普及し、これに便乗した民芸調とか民芸趣味といった一種のブームを呼び起こした。しかし民芸運動の本旨は趣味やムードではなく、民芸品が本来の特性を明らかにし、その工芸美を認識し、技術の保存・普及・復興を図ろうというもので、その主張は次の諸点である。(1)実用性 一般生活に実際に使われる目的で制作されたもの。吟味された材料で正確かつ熟練した技術によってつくられ、使い勝手のよいものでなければならない。かつ、むだのないデザインの美しさと、堅牢(けんろう)で素朴な機能性が要求される。(2)民衆性 作者の銘を入れないこと。つくる者も使う者も一般民衆であって、特定の芸術家の作ではなく、また特定の個人のためにつくられたものでもない。したがって作品は原則として無銘であり、無私の美しさと力を備えているものが民芸品である。(3)手仕事であること 機械による大量生産品は民芸品とはいわない。日本の手仕事は初期においては中国や朝鮮からの影響を受けたが、時代の進むにつれて日本独自の材料や手法をもつに至り、とくに江戸時代300年の間に著しい発展を遂げた。現在は機械に頼る部分も多くなってはいるが、本来は手仕事から出発したものに限られる。(4)地方性 その地方の伝統と特色を生かしたものであること。歴史の古い城下町では藩公の保護のもとにいろいろな工芸が発達した。また日本は南北に長い地形をもっているため、地理的にも材料的にも、各地の自然は異なった様態を示し、それぞれの土地の気候風土によって素材や利用目的が影響を受け、多種多様な民芸品が生まれた。(5)多数性と低価格 民衆の日々の用にあてるためには、いつでも求められるという多数性は不可欠の要件である。一点主義の美術品のような希少価格は民芸品には通用しない。ある程度の量産によって技術は確実なものとなり、価格も安定し、買い求めやすくなる。しかし、多数安価であっても粗製乱造であってはならない。
以上のほかに、材料は人造資材によらず、天然材料によることなどが条件にあげられる。
柳宗悦が唱えた民芸運動は全国的な広がりをみせ、彼の造語になる「民芸」folkcraftの語は海外にも広く通用するようになった。その一方で、伝統的な手工芸の民芸品は、機械化と低廉な工場製品に押されて急速に姿を消し、昔ながらの手作りの民芸品は現在ではむしろ骨董品(こっとうひん)扱いされ、美術品なみの高値をよぶことさえあり、当初の安価多数供給の目的とはほど遠くなっている。材料的にも天然材料を入手すること自体が困難になってきている。民芸が単なる懐古趣味やレトロブームでなく、運動の対象目的をどのように社会に適応させていくかが、今後の課題であろう。
[永井信一]
『柳宗悦著『民芸四十年』(岩波文庫)』▽『岩井宏美・福田栄治編『日本の博物館2 民芸の美――伝統工芸博物館』(1982・講談社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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民衆の作った工芸の意だが,日本では地方の無名工人の作る美術工芸の総称。民芸の概念は柳宗悦(やなぎむねよし)が1926年(大正15)1月に作成した「日本民芸美術館設立趣意書」に語られており,民衆の日常雑器,すなわち下手物(げてもの)の民衆工芸を民芸と規定した。その主張に陶工の河井寛次郎,浜田庄司,富本憲吉(富本はまもなく離脱),バーナード・リーチらが共鳴し参加したのち,染織では芹沢銈介(せりざわけいすけ),板画家の棟方志功(むなかたしこう)らが加わった。民芸運動は明治・大正・昭和の芸術思潮を支えた技巧主義への反省と,魂の響きを求める運動の一つの具体例としておこり,そのはたした創造的役割は大きい。東京駒場の日本民芸館は運動の拠点となっている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…伝統的な工芸品のかたちをモティーフとしてとりいれたにすぎないそれらが,比較的容易に工芸として認知されたことの前提には,工芸を外面的特徴によって識別しようとする社会的通念があったからである。こうした,〈もの〉に即して工芸を定義しようとする姿勢は,その様式によって特定されている〈民芸〉〈伝統工芸〉という名称にもみることができる。また,戦後に始まる日本の〈クラフト運動〉は,制作の原理を,より多くの人にすぐれた日用品を提供するという民主主義の理念に置いたことで,日本における工芸の概念を本格的に変革しうる可能性をもつが,その原理は様式の統一化にすり替えられる危険性をつねにはらんでいる。…
…しかし,この〈フォービスム〉とは芸術理論としてのものではなく,印象主義による洋画が新鮮さを失って久しいこの時期にあって,新しい感覚と技術による近代絵画の移植が印象主義を克服したという意味で呼ばれたものであった。
[新しい版画運動]
江戸後期に庶民芸術として盛んであった浮世絵版画は,明治維新後,文明開化の新風俗を対象として錦絵や挿絵になお迎えられていた。しかし浮世絵師の感覚の古さは,しだいにマンネリズムの表現をくりかえし,日清戦争の戦争図あたりを掉尾(とうび)として衰微していった。…
…拠点劇場を持たない劇団がけいこ場を小劇場活動の拠点とした最初である。滝沢修(1906‐ ),宇野重吉(1914‐88)らの〈民芸〉(正称は〈劇団民芸〉)は,1947年に創立された〈民衆芸術劇場〉が発展的解消をとげ,50年に再建された劇団である。俳優座,文学座,民芸は〈三大新劇団〉といわれ,さらに山本安英(やすえ)(1902‐93)らの〈ぶどうの会〉,村山知義らの再建〈新協劇団〉,そして〈文化座〉の6劇団が戦前・戦中の流れをくむ劇団として戦後の再スタートを切った。…
…フランス演劇研究会ではサルトル,アヌイなど戦後フランスの実存主義的演劇を初演するとともに,東京信濃町の同座稽古場を利用して〈新しき演劇の実験室〉としての〈アトリエ公演〉活動を展開した。 一方,戦前の〈新協・新築地時代〉の政治的な社会主義リアリズム演劇の再建・復興をはかる活動は,内部に対立を含んで複雑な様相を呈していたが,まず46年には,朝鮮から帰国した村山知義によって新協劇団が再建され,47年には滝沢修,宇野重吉らが〈民衆芸術劇場〉(〈劇団民芸〉の前身)を結成,新協劇団と合同して有楽座で島崎藤村作《破戒》を上演し,また東宝の力を借りて土方与志演出による《復活》が帝国劇場で上演されるようにもなったが,以後の50年のレッドパージに収斂されていく占領体制下にあって,その活動は必ずしも完全に自由なものではなかった。 このようにして,ほぼ52年ごろには戦後の新劇復興が成るが,民間放送開始につづくテレビの開局(1953)は,俳優たち新劇関係者の生活基盤確立に大きな影響を与え,俳優養成所卒業生たちにも多くの活動の場を提供することとなった。…
… 第2次大戦後日本の新劇は,1945年末の合同公演《桜の園》で出発した。以来ロシアの近代古典を再演し直す動きと並行して,社会主義国の新しい演劇への関心も高まり,俳優座上演のマルシャーク作《森は生きている》(原題《12ヵ月》,1955)や劇団民芸上演のアルブーゾフ作《イルクーツク物語》(1961)が,その新鮮な持ち味とヒューマニスティックな主張で反響を呼んだ。その後も民芸のショーロホフ作《開かれた処女地》(1965),シャトローフ作《7月6日》(1970。…
※「民芸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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