精選版 日本国語大辞典 「民芸」の意味・読み・例文・類語
みん‐げい【民芸】
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民衆の工芸品の略語。民衆の間でつくられた日常の生活用具のうち、機能的で健康な美しさをもつ工芸品とその制作活動。大正末期(1920年代)に柳宗悦(むねよし)によって提唱された。それまで下手物(げてもの)とよばれて美術の分野から無視されていた日用雑器に光をあて、手仕事のよさと美的な価値を認めようというもの。朝鮮、沖縄や日本各地の江戸時代から昭和初期の民芸品が特集形式の雑誌『工芸』(1931~51、全120冊刊行)などに紹介され、1936年(昭和11)には東京・駒場(こまば)に日本民芸館が設立されて、民芸運動の拠点となった。この運動の代表的作家河井寛次郎(かんじろう)、浜田庄司(しょうじ)、芹沢銈介(せりざわけいすけ)らの国画会による実作活動や、バーナード・リーチら海外作家の共鳴によって人々の関心を集め、民芸運動は普及し、これに便乗した民芸調とか民芸趣味といった一種のブームを呼び起こした。しかし民芸運動の本旨は趣味やムードではなく、民芸品が本来の特性を明らかにし、その工芸美を認識し、技術の保存・普及・復興を図ろうというもので、その主張は次の諸点である。(1)実用性 一般生活に実際に使われる目的で制作されたもの。吟味された材料で正確かつ熟練した技術によってつくられ、使い勝手のよいものでなければならない。かつ、むだのないデザインの美しさと、堅牢(けんろう)で素朴な機能性が要求される。(2)民衆性 作者の銘を入れないこと。つくる者も使う者も一般民衆であって、特定の芸術家の作ではなく、また特定の個人のためにつくられたものでもない。したがって作品は原則として無銘であり、無私の美しさと力を備えているものが民芸品である。(3)手仕事であること 機械による大量生産品は民芸品とはいわない。日本の手仕事は初期においては中国や朝鮮からの影響を受けたが、時代の進むにつれて日本独自の材料や手法をもつに至り、とくに江戸時代300年の間に著しい発展を遂げた。現在は機械に頼る部分も多くなってはいるが、本来は手仕事から出発したものに限られる。(4)地方性 その地方の伝統と特色を生かしたものであること。歴史の古い城下町では藩公の保護のもとにいろいろな工芸が発達した。また日本は南北に長い地形をもっているため、地理的にも材料的にも、各地の自然は異なった様態を示し、それぞれの土地の気候風土によって素材や利用目的が影響を受け、多種多様な民芸品が生まれた。(5)多数性と低価格 民衆の日々の用にあてるためには、いつでも求められるという多数性は不可欠の要件である。一点主義の美術品のような希少価格は民芸品には通用しない。ある程度の量産によって技術は確実なものとなり、価格も安定し、買い求めやすくなる。しかし、多数安価であっても粗製乱造であってはならない。
以上のほかに、材料は人造資材によらず、天然材料によることなどが条件にあげられる。
柳宗悦が唱えた民芸運動は全国的な広がりをみせ、彼の造語になる「民芸」folkcraftの語は海外にも広く通用するようになった。その一方で、伝統的な手工芸の民芸品は、機械化と低廉な工場製品に押されて急速に姿を消し、昔ながらの手作りの民芸品は現在ではむしろ骨董品(こっとうひん)扱いされ、美術品なみの高値をよぶことさえあり、当初の安価多数供給の目的とはほど遠くなっている。材料的にも天然材料を入手すること自体が困難になってきている。民芸が単なる懐古趣味やレトロブームでなく、運動の対象目的をどのように社会に適応させていくかが、今後の課題であろう。
[永井信一]
『柳宗悦著『民芸四十年』(岩波文庫)』▽『岩井宏美・福田栄治編『日本の博物館2 民芸の美――伝統工芸博物館』(1982・講談社)』
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民衆の作った工芸の意だが,日本では地方の無名工人の作る美術工芸の総称。民芸の概念は柳宗悦(やなぎむねよし)が1926年(大正15)1月に作成した「日本民芸美術館設立趣意書」に語られており,民衆の日常雑器,すなわち下手物(げてもの)の民衆工芸を民芸と規定した。その主張に陶工の河井寛次郎,浜田庄司,富本憲吉(富本はまもなく離脱),バーナード・リーチらが共鳴し参加したのち,染織では芹沢銈介(せりざわけいすけ),板画家の棟方志功(むなかたしこう)らが加わった。民芸運動は明治・大正・昭和の芸術思潮を支えた技巧主義への反省と,魂の響きを求める運動の一つの具体例としておこり,そのはたした創造的役割は大きい。東京駒場の日本民芸館は運動の拠点となっている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…伝統的な工芸品のかたちをモティーフとしてとりいれたにすぎないそれらが,比較的容易に工芸として認知されたことの前提には,工芸を外面的特徴によって識別しようとする社会的通念があったからである。こうした,〈もの〉に即して工芸を定義しようとする姿勢は,その様式によって特定されている〈民芸〉〈伝統工芸〉という名称にもみることができる。また,戦後に始まる日本の〈クラフト運動〉は,制作の原理を,より多くの人にすぐれた日用品を提供するという民主主義の理念に置いたことで,日本における工芸の概念を本格的に変革しうる可能性をもつが,その原理は様式の統一化にすり替えられる危険性をつねにはらんでいる。…
…しかし,この〈フォービスム〉とは芸術理論としてのものではなく,印象主義による洋画が新鮮さを失って久しいこの時期にあって,新しい感覚と技術による近代絵画の移植が印象主義を克服したという意味で呼ばれたものであった。
[新しい版画運動]
江戸後期に庶民芸術として盛んであった浮世絵版画は,明治維新後,文明開化の新風俗を対象として錦絵や挿絵になお迎えられていた。しかし浮世絵師の感覚の古さは,しだいにマンネリズムの表現をくりかえし,日清戦争の戦争図あたりを掉尾(とうび)として衰微していった。…
…拠点劇場を持たない劇団がけいこ場を小劇場活動の拠点とした最初である。滝沢修(1906‐ ),宇野重吉(1914‐88)らの〈民芸〉(正称は〈劇団民芸〉)は,1947年に創立された〈民衆芸術劇場〉が発展的解消をとげ,50年に再建された劇団である。俳優座,文学座,民芸は〈三大新劇団〉といわれ,さらに山本安英(やすえ)(1902‐93)らの〈ぶどうの会〉,村山知義らの再建〈新協劇団〉,そして〈文化座〉の6劇団が戦前・戦中の流れをくむ劇団として戦後の再スタートを切った。…
…フランス演劇研究会ではサルトル,アヌイなど戦後フランスの実存主義的演劇を初演するとともに,東京信濃町の同座稽古場を利用して〈新しき演劇の実験室〉としての〈アトリエ公演〉活動を展開した。 一方,戦前の〈新協・新築地時代〉の政治的な社会主義リアリズム演劇の再建・復興をはかる活動は,内部に対立を含んで複雑な様相を呈していたが,まず46年には,朝鮮から帰国した村山知義によって新協劇団が再建され,47年には滝沢修,宇野重吉らが〈民衆芸術劇場〉(〈劇団民芸〉の前身)を結成,新協劇団と合同して有楽座で島崎藤村作《破戒》を上演し,また東宝の力を借りて土方与志演出による《復活》が帝国劇場で上演されるようにもなったが,以後の50年のレッドパージに収斂されていく占領体制下にあって,その活動は必ずしも完全に自由なものではなかった。 このようにして,ほぼ52年ごろには戦後の新劇復興が成るが,民間放送開始につづくテレビの開局(1953)は,俳優たち新劇関係者の生活基盤確立に大きな影響を与え,俳優養成所卒業生たちにも多くの活動の場を提供することとなった。…
… 第2次大戦後日本の新劇は,1945年末の合同公演《桜の園》で出発した。以来ロシアの近代古典を再演し直す動きと並行して,社会主義国の新しい演劇への関心も高まり,俳優座上演のマルシャーク作《森は生きている》(原題《12ヵ月》,1955)や劇団民芸上演のアルブーゾフ作《イルクーツク物語》(1961)が,その新鮮な持ち味とヒューマニスティックな主張で反響を呼んだ。その後も民芸のショーロホフ作《開かれた処女地》(1965),シャトローフ作《7月6日》(1970。…
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