山田守(読み)やまだもり

精選版 日本国語大辞典 「山田守」の意味・読み・例文・類語

やまだ‐もり【山田守】

  1. 〘 名詞 〙 山間の田を守る人。山田番人。《 季語・秋 》
    1. [初出の実例]「我がごとやいねがてにする山だもりかりてふ声に目をさましつる」(出典:相模集(1061頃か))

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20世紀日本人名事典 「山田守」の解説

山田 守
ヤマダ マモル

大正・昭和期の建築家



生年
明治27(1894)年4月19日

没年
昭和41(1966)年6月13日

出生地
岐阜県

学歴〔年〕
東京帝国大学建築学科〔大正9年〕卒

主な受賞名〔年〕
建築学会賞〔昭和28年〕「大阪厚生年金病院」

経歴
卒業前に石本喜久治らと分離派建築会結成、「分離派宣言」を書き、近代建築運動の先駆をなした。逓信省営繕課に務め、「逓信建築」の伝統形成に貢献した。昭和20年退職、24年建築事務所を開設松前重義を助けて東海大学設立に尽力、同大建築科主任教授を務めた。逓信時代の代表作に東京中央電信局、東京逓信病院がある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「山田守」の意味・わかりやすい解説

山田守
やまだまもる
(1894―1966)

建築家。岐阜県羽島生まれ。1920年(大正9)東京帝国大学建築学科卒業。同窓堀口捨己(すてみ)ら有志5人とともに「分離派建築会」を結成。建築界に大きな影響を与える。卒業後逓信(ていしん)省に入り、45年(昭和20)の退官まで逓信省関係の建物設計を担当。なかでも東京中央電信局(1925)、東京逓信病院(1937)が代表作。49年建築設計事務所を開設。51年からは東海大学教授も務める。独立後のおもな作品に東京厚生年金病院(1953)、京都タワービル(1964)、日本武道館(1964)がある。

[天田起雄]

『山田守建築作品集刊行会編『山田守建築作品集』(1967・東海大学出版会)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「山田守」の解説

山田守 やまだ-まもる

1894-1966 大正-昭和時代の建築家。
明治27年4月19日生まれ。大正9年石本喜久治らと分離派建築会を結成,近代建築運動をおこす。逓信省にはいり東京中央電信局などを設計。昭和24年建築事務所をひらく。26年東海大教授。昭和41年6月13日死去。72歳。岐阜県出身。東京帝大卒。作品に旧東京厚生年金病院,日本武道館など。

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367日誕生日大事典 「山田守」の解説

山田 守 (やまだ まもる)

生年月日:1894年4月19日
大正時代;昭和時代の建築家
1966年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の山田守の言及

【表現主義】より

…しかし建築技術の面から見ると,ガラスを多用し夢を託している点のほかは特色はほとんどない。以上を表現主義建築の基準と見ると,スイスにあるシュタイナーのゲーテアヌムII(1924年着工,ドルナハDornach),オランダのクラメルPieter Lodewijk Kramer(1881‐1961)らによるメールウェイク園の住宅群(1918,ベルヘン),山田守(1894‐1966)の東京中央電信局(1922)など,1920年代には広く深い影響を与えたことがわかる。しかし20年代後半にドイツの社会も安定しはじめ,建築家はより現実的に社会との対応を迫られ,かつ技術の進歩を着実に建築に反映させねばならず,表現主義から新即物主義へと姿勢を移していった。…

※「山田守」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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