岡本城跡(読み)おかもとじようあと

日本歴史地名大系 「岡本城跡」の解説

岡本城跡
おかもとじようあと

[現在地名]須崎市下分

新荘しんじよう川の北岸、通称岡本おかもと波介はげ両集落の間にある標高一六六メートルの山上にある。おおごう方面よりいけうちを経て久礼くれ(現高岡郡中土佐町)に通じる中村街道と、新荘川沿いに西行して半山はやま(同葉山村)に至る道を俯瞰できる要害の地で、南北朝時代には北朝方で津野氏の麾下にあったという佐伯(堅田・方田)氏が拠り、戦国時代は津野氏の番城となったと伝える。郭配置は本丸と二ノ丸とが連なった連接式で、深さ一―一・五メートル、幅二メートルの空濠が本丸と二ノ丸を囲んで同心円状あるいは放射状に残る。


岡本城跡
おかもとじようあと

[現在地名]岡原村岡本

岡本の古町ふるまち集落の南東部の比高約六五メートルの丘陵地にある中世城館跡。東の岡本谷、南側の鞍部の尾根筋には数条の堀切が残っていたという。山頂部分は三〇メートルに二〇メートルの楕円形状の平坦地をなし、北面に十数段の重なりをもつ階段状地形がある。上段部から数個の碾臼が出土している。寛永一六年(一六三九)の相良清兵衛屋敷其他絵図(県立図書館蔵)に本丸・二ノ丸・三ノ丸が記され、各郭は「植松」によって囲まれ、麓には相良清兵衛屋敷・明屋敷・庄屋屋敷・馬場・町屋敷・蔵などが記され、岡本城を中心とした城下町の様子を知ることができる。また現在も城跡の西側には馬廻うままわしの呼称があるが、絵図には、皆越みなごえ(現上村)への「馬道」と記される。


岡本城跡
おかもとじようあと

[現在地名]三間町土居垣内

三間川を見下ろす岡本城山にあり、山麓を三間川は迂回して流れる。土塁・空堀の跡が残る。土居清良の本城大森おおもり城の枝城。延宝九年(一六八一)の「吉田古記」には「前は河野家持来ると云、永禄の頃より、土居式部大輔清良枝城になるよし」とあり、もとは有馬殿河野氏の持城であったが、永禄年間(一五五八―七〇)に土居清良の枝城になったとしている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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