岡本村(読み)おかもとむら

日本歴史地名大系 「岡本村」の解説

岡本村
おかもとむら

[現在地名]富浦町原岡はらおか

はら村の南に位置し、南端を岡本川が西流して海(浦賀水道)に注ぐ。同川の河口両岸は通称富浦湾の最奥部で湊としての好条件を備え、海にせり出した尾根の先端には里見氏の本城岡本城があった。

〔中世〕

岡本城眼下の入江は、早くから江戸湾内水上交通の中継港として開けていたと考えられる。大永―享禄年中(一五二一―三二)に比定される八月二八日の里見義豊書状(上野家文書)に「岡本」とみえ、義豊は先に当地へ舟で攻撃するよう命じられていたので、左衛門佐と談合し、順風を待って一両日中に実行することを中里氏に伝えている。以後この地は、江戸湾水上交通を掌握することで飛躍を遂げた里見氏の軍事・経済上の拠点として機能しており、とくに水軍の基地として、北条氏水軍を迎撃する機能を持っていた(年未詳五月八日「井出時吉等連署書状」越前史料所収山本文書)。なお元亀―天正期(一五七〇―九二)頃、里見義尭・義弘父子は上総にその領国経営の基盤を置いており、岡本城には義弘の長子義継(義頼)が安房およびその海域を管轄するため常駐していた(年未詳一〇月四日「国吉信春書状」高野山西門院文書・天正三年一二月日「里見義継印判状」竹内文平氏旧蔵文書)。しかし天正六年五月の義弘没後、その遺領をめぐって安房を基盤とする義頼と、義弘の嫡子で上総の国人層に支持された梅王丸との間で争いが勃発し、里見家中を二分する内乱へと発展した(天正八年七月五日「里見義頼書状」稲子文書)。この内乱は義頼の勝利に帰し(同八年一一月日「日我書状」椙山文書)、以降義頼の居城である岡本城は、本拠を館山に移すまで里見氏の本城として機能した。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]豊中町岡本

七宝しつぽう山麓から竿さお川流域に位置し、寺家じけ村の西にある。寛永国絵図に村名がみえ、本山もとやま郷に所属。寛永一八年(一六四一)の小物成は綿九〇匁(山崎領小物成帳)。寛文四年(一六六四)の丸亀藩高辻帳では六五五石余。「西讃府志」によれば村の広さは東西一六町二〇間・南北一五町三〇間。高八三七石余、反別は一〇〇町二反余、うち畑三〇町二反余・屋敷三町八反余。家数三七一・人数一千五三六、牛一三三・馬一二。林一七町九反余、橋七、堰四。池はおお池・二之にの池・荒神こうじん池・しん池・おく池。八幡宮・地蔵堂などがある。正徳三年(一七一三)の佐股組明細帳(三豊郡史)によれば平均斗代八斗五升、租率四ツ五分。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]鎌倉市岡本・玉縄たまなわ一―三丁目

玉縄城跡の東側に位置し、東境を戸部とべ(柏尾川)が流れ、北は長尾台ながおだい村・田谷たや(現横浜市戸塚区)、東は笠間かさま(現戸塚区)大船おおふな村・小袋谷こぶくろや村・だい村・山崎やまざき村、南は小塚こつか村・高谷たかや(現藤沢市)、西は植木うえき村・関谷せきや村・城廻しろめぐり村に接する。正保国絵図に村名が載る。皇国地誌によるともと付近の村々とともに玉縄村と称していたが、元禄年間(一六八八―一七〇四)に分村して当村および城廻村・植木村・関谷村、渡内わたうち(現藤沢市)山谷新田さんやしんでん(現戸塚区)となったという。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]福島市岡島おかじま

中島なかじま村の東、山口やまぐち村の北に位置し、阿武隈川の低位沖積段丘面上に立地。西端を胡桃くるみ川が北流する。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高二七五石余。近世初期の邑鑑によると免二ツ六分、家数二六(役家七・肝煎一・脇家一八)、人数四八、役木として桑少しと楮がある。米沢藩領時代の古高四六三石余、幕府検地による新高三二四石余(古高新高帳)。貞享三年(一六八六)福島藩領、元禄一三年(一七〇〇)幕府領、享保一五年(一七三〇)二本松藩預地、寛保二年(一七四二)幕府直轄領、宝暦五年(一七五五)会津藩預地、明和元年(一七六四)幕府直轄領、寛政元年(一七八九)越後新発田藩領、文政一三年(一八三〇)幕府領となり幕末に至る。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]岡原村岡本

東は奥野おくの(現多良木町)宮原みやはる村、西はうえ(現上村)免田めんだ(現免田町)、南は皆越みなごえ村・上村(現上村)、北は宮原村に接する。岡許村とも岡元村とも記される。菊池系図(「続群書類従」所収)のなかに「合志九郎 永里・岡本両地領主なり」とあり、建久八年(一一九七)閏六月日の肥後国球磨郡田数領主等目録写(相良家文書)にみえる人吉ひとよし庄の地頭「藤原季高 字合志九良」と同一人物とみられ、合志氏の支配下にあった。

慶長国絵図に四七七石四斗余とある。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]宇治市五ヶ庄

五ヶ庄ごかのしよう村を構成した集落の一つで、その南部に位置する。集落は宇治川旧流路の痕跡とされる岡本池(昭和初期に埋立)の北岸に接しており、その北方には条里地割が顕著にみられた水田が展開する(「五ケ庄総絵図」宇治市役所蔵)。また集落東北には瓦塚かわらづか古墳(円墳)があり、岡本池東岸には白鳳時代の瓦窯が見いだされている。

一七世紀中期以前は近衛家領、その後は大部分が幕府領となり、一部が萬福まんぷく寺領に付されていた。元和四年(一六一八)の岡本村名寄帳(陽明文庫蔵)によれば、その耕地反別は八町二歩、石高にして一〇〇・六三八石にすぎず、村内の土地保有者はわずかに一二名であった。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]東灘区岡本一―九丁目・本山北町もとやまきたまち三丁目・本山町岡本もとやまちようおかもと

野寄のより村の東、六甲ろつこう山地南麓緩斜面の山寄りに立地する。村内を西天上にしてんじよう川が天上川に合流して南流する。中世は山路やまじ庄内にあり、永禄一二年(一五六九)一二月吉日の山路庄公事銭取納帳案(高井文書)には岡本村分の項があり、「山田」「平田」「中嶋」「八条かき」「あせかいち」「古川」「高石」「すミ田」「六ま」「ろうノ内」などの地名がみえる。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]泉佐野市南中岡本みなみなかおかもと

安松やすまつ村の西に位置し、村の南端樫井かしい村境を紀州街道(熊野街道)が通る。文暦元年(一二三四)一二月二日の日根庄諸村田畠在家等注文案(九条家文書)によれば、岡本は日根ひね庄四ヵ村の一である日根野ひねの村内にあり、現作田約四町七反弱・畑二町四反余(うち年荒は田畑合計で六反余)、在家一一宇、在家名は安貞・安弘・禅師・時末・正友・守時・安延・得成・末宗・則平・正景。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]世田谷区岡本一―三丁目・大蔵おおくら一丁目・同四丁目・同六丁目・砧公園きぬたこうえん鎌田かまた一丁目・同三―四丁目・玉川たまがわ四丁目・瀬田せた四―五丁目

大蔵村の東にあり、多摩郡に属する。東は荏原えばら瀬田せた村。地形的には北側が高く、南側は低くなっている。六郷ろくごう用水が南部を南東へ流れ、上仙川かみせんがわ用水が大蔵村から入り、村内で六郷用水に合流する。横根よこね村に水源をもつ用水も六郷用水に合流した。飛地が村の北方と南方に一ヵ所ずつあった(風土記稿)。寛永一〇年(一六三三)以降近江彦根藩領(公私世田谷年代記)。田園簿に岡本村とあり、高一九一石余、うち六石余が川懸。ほかに野米七斗余。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]蒲生町岡本

上麻生かみあそう村の東に位置。東半は丘陵地、集落をほぼ南北に貫いて御代参ごだいさん街道が通り、江戸時代には同街道の宿駅が置かれた。集落はかつて丘陵近くにあったが、のち街道沿いに移転したという。日野大窪ひのおおくぼ(現日野町)のうち岡本町は当地出身者により形成されたと伝える。康安元年(一三六一)六月二五日の公文代正阿弥状(山部神社文書)に「おか本」とみえる。戦国期のものと推定される得珍保海草等馬足子交名(今堀日吉神社文書)には「おかもとの馬のせう 衛門二郎 彦六 藤内二郎 衛門二郎」とみえ、多くの足子商人がいたことが知られる。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]松江市岡本町

東はじよう山・秋葉あきば山を境に秋鹿村、西は本宮ほんぐう山を境に上大野かみおおの村などに接し、南は宍道湖に臨む。岡本川が南流して宍道湖に注ぐ。同川は「出雲国風土記」にみえる秋鹿郡多太ただ川に比定され、水源は女心高野めごころたかの(現在の本宮山に比定)と記される。湖岸を杵築道が通る。中世は岡本保・岡本郷に含まれていたとみられる。慶長七年(一六〇二)の検地帳によると田方二九町八反余(分米四四〇石余)・畑方一七町余(分米七七石余)、居屋敷の反別一町二反余、人数四一(うち本百姓三二)。元禄十年出雲国郷帳によると高四六五石余、寛文四年(一六六四)には本田高四四七石余・新田高一石余。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]三ヶ日町岡本

三ヶ日村の西に位置する。村内を南流する宇利山うりやま川は釣橋つりばし川に合流して猪鼻いのはな湖に注ぐ。南部を本坂通が東西に通る。中世は浜名神戸のうちの岡本郷と称された。正保郷帳に村名がみえ、田方三九九石余・畑方一五四石余・山高六石、旗本大谷近藤(のちの内野近藤)領、ほかに伊勢(現初生衣神社)領三三石余・神照院領三石余がある。領主は変化なく幕末に至る。元禄郷帳では高六二三石余。国立史料館本元禄郷帳では寺社領は「伊勢神明初生衆領」・薬師堂(神照院)領・斎宮領となっている。旧高旧領取調帳では内野近藤領六九六石余、ほかに伊勢神明領二九石余・浜名斎宮領三石・神照院領七石余・東心庵領五石余がある。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]高槻市岡本町・南平台なんぺいだい一―五丁目・氷室ひむろ町五丁目

郡家ぐんげ村の北西にあり、女瀬によぜ川の左岸、弁天山べんてんやま丘陵南麓に位置する。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には「岡本村」とみえ高八八石余。元和初年の摂津一国高御改帳では同高で高槻藩領、寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では九九石余で京都所司代板倉重宗領。明暦二年(一六五六)まで同氏領で、万治元年(一六五八)禁裏付代官小田切須猶領となり、小田切領として幕末まで続く。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]富岡市岡本

くだ川が東境を流れ、東は善慶寺ぜんけいじ(現甘楽郡甘楽町)、西は後箇ごか村、南は国峰くにみね(現甘楽町)、北は高瀬たかせ村・内匠たくみ村と接する。近世はおおむね七日市藩領。天明三年(一七八三)写の領内村高等覚(保阪文書)によると、田三四町八反余・畑七一町四反五畝余。中山道松井田まついだ宿(現碓氷郡松井田町)の加助郷一千九二石を勤めた(嘉永五年「松井田宿明細帳」安中市教育委員会蔵)

岡本村
おかもとむら

[現在地名]市島町北岡本きたおかもと

東端を竹田たけだ川が流れ、南は上田かみだ村。江戸時代前期は吉見よしみ村に含まれた。元禄郷帳では吉見と肩書して村名がみえ高二〇八石余。上総勝浦藩と旗本杉浦氏の相給(国立史料館本元禄郷帳)。両者とも領知は天和二年(一六八二)から(寛政重修諸家譜)。同藩領は宝暦元年(一七五一)上知となり(同書)、「丹波志」では幕府領と杉浦領、家数一四。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]山南町岡本

東は玉巻たまき村・北嶋きたじま村。文明一一年(一四七九)一一月吉日の玉巻重方示置文(久下信生家文書)、天文一二年(一五四三)一二月二七日の久下重像段銭日記(同文書)、永禄年間(一五五八―七〇)の公方普請用脚米算用状(同文書)に近隣の池谷いけだにとともにみえる。慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一二二石余・畠高一八石余、柴山・林あり、日損・水損少しあり。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]芸濃町岡本

萩野はいの村の南に続く沖積地に位置する。美濃屋みのや川はこの付近を水源として東南に流れる。近世に入り一時織田信包の所領となったが、慶長一三年(一六〇八)以後津藩領、寛文九年(一六六九)以降久居藩に属した。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]松阪市岡本町

ふじ村の南、坂内さかない川の左岸にある。玉田寺大般若経(多気郡多気町光徳寺蔵)の奥書に「岡本右衛門」とあり、岡本の地名がうかがえる。近世は和歌山藩松坂領。寛永一一年(一六三四)の飯高郡新田新畑帳(徳川林政史蔵)に岡本村、慶安二年(一六四九)の丑改新畑帳(松阪市史編さん室蔵)に「勢州松坂領岡本村」とある。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]草津市岡本町・若草わかくさ

部田へた村の南東に位置。集落は平坦地にあったが、草津川の氾濫にあい丘陵部へ移ったといわれる。膳所藩領。寛永石高帳では高六三一石余。慶安高辻帳では田三三五石余・畑一三石余・永荒二八二石余、ほか小物成として米四石余。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]高松市岡本町

山崎やまさき村の南に位置し、西部に奈良須ならず池がある。高松・金毘羅街道が通る。寛永国絵図に村名がみえるが、高は中間なかつま郷に一括されている。天保九年(一八三八)の御領分明細記では高六〇八石余。

岡本村
おかもとむら

[現在地名]武生市岡本町

府中町の西南にある茶臼ちやうす山の西北麓にある。古代の丹生郡岡本郷(和名抄)に含まれる地と考えられる。享禄二年(一五二九)七月一九日付の青木景康・印牧美次連署状写(田中家文書)に村名がみえるが、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「五ケ村千福村」に含まれていると思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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