岸田村
きしだむら
[現在地名]温泉町岸田
石橋村の南にある。村域は岸田川の最上流域を占めて広大で、南には扇ノ山(一三〇九・九メートル)がそびえる。同山の北側には高原状の地が展開、その北部は上山(上山高原)、南部は畑ヶ平(畑ヶ平高原)とよばれた。二方考地理第三八太郷(温泉町教育委員会蔵)によれば下流から田中・岸田・畑原・黄下の集落があり、黄下は現在の青下にあたる。千谷村で山陰道から分れ岸田川沿いに南下して当地に至る道は岸田往来ともよばれ、当地からさらに南に進み、地内の菅原を経て扇ノ山の東方鞍部を越え、因幡国八東郡若桜(現鳥取県若桜町)に達する山道(険阻で馬は通れない)も通じていた。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「田中」「きした」、「あうけ」(黄下・青下)、「はたはら」とあり、岸田には馬場十郎左衛門殿が住していた。文明三年(一四七一)の八太庄領家分米銭納帳写(中村文書)には「あふけ」とみえる。
岸田村
きしだむら
[現在地名]天理市岸田町
新泉村南方の環濠集落。長承元年(一一三二)の引田近貞田地売券(東大寺文書)に「山辺郡十五条五里廿七坪字堺田」とあり、坂井田の小字が残る。また西大寺田園目録に「山辺郡南郷十五条七里十一二両坪内二段東辺字クホナカシリカケ(中略)永仁三年五月廿五日光明真言料田顕信房」とあるシリカケは「大乗院雑事記」延徳三年(一四九一)四月一日条に「大和明神祭礼也、中山寺ニ神向、於尻懸而神供備進之」とみえる。
岸田村
きしだむら
[現在地名]一宮町上岸田
揖保川と支流黒原川の合流点付近を中心とし、南西は百千家満村。下村氏手控帳(下村家文書)に慶長検地の記事として「半済村、岸田の事今山岸」とあり、半済村・山岸村とも称された。慶長国絵図に半済村がみえる。領主の変遷は生栖村と同じ。正保郷帳では岸田村の村名に「半済之」と肩書があり、田方二一〇石余・畠方七八石余。前掲手控帳によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には田一一町五反余・畑九町六反余、家数四〇・人数一八六、馬四・牛三三、小物成は楮役三匁余・茶役五二匁余・桑役(真綿)二貫匁余。
岸田村
きしだむら
[現在地名]鈴鹿市岸田町
下大久保村の西北、内部川をもって三重郡(現四日市市)と境を接する、台地上の集落。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳に「岸田ノ郷」一八六・一石として現れる。文禄四年(一五九五)領主柘植大炊介与一(尾張犬山城代)の時、上流深溝村との間に水論が生じ、深溝村の領主山内一豊(当時遠州掛川城主)が玉木又右衛門宛の七月二九日付書状(深溝区有)に「深溝井水儀、松下石見殿を以、柘大炊様へ申入、則大炊殿下代ニ様子御尋候ヘハ、岸田より彼井儀(下略)」とある。慶長一五年(一六一〇)亀山藩松平忠明の領分となるが、元和元年(一六一五)から寛永一三年(一六三六)までは津藩の領分で、この間にも二度にわたって深溝との水論があった(以上深溝区有文書)。
岸田村
きしだむら
[現在地名]山崎町岸田
揖保川の中流左岸に位置し、南は矢原村。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は山崎村と同じ。正保郷帳では田方三八六石余・畠方一二一石。下村氏手控帳(下村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高九二五石余、田三二町四反余・畑一〇町八反余、小物成銀二七匁余(茶役一一匁余・山畑役一〇匁余・楮役四匁余・栗役一匁)・桑役(真綿)七一六匁余、家数六九・人数四二〇、馬五・牛四三。宝暦―明和(一七五一―七二)の郷中古事録(織金家文書)では延享四年(一七四七)の田三三町八反余・畑八町七反余、宝暦年間には家数一一一・人数四一五、牛四七・馬五。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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