島尻村(読み)すまずーむら

日本歴史地名大系 「島尻村」の解説

島尻村
すまずーむら

[現在地名]平良市島尻しまじり

大浦うぷら村の北に位置し、西から北にかけては狩俣かまた村に接する。東部は海に面し、北西部は入江となっている。北方沖合に大神うがむ島がある。狩俣かまた間切に属する。北海岸に露出する第三紀層から鯨や鮫の化石が発見されている。島尻元島すまずーむとうずま遺跡・島尻遠見台すまずーとうみだい遺跡があり、土器・輸入陶磁器などが出土する。御嶽由来記に野猿間御嶽(男神キヤヒカサ主・女神オモイマラツカサ、比定地はクムズィダーか)、島尻御嶽(女神マヒトマラツカサ、比定地はフツムトゥか)が記される。最も崇敬されている拝所に祖神祭にかかわるフツムトゥ(ウプムトゥ、大元とも)・クムダー(籠り座)・ナウッダー(直し座)があり、ほかにサトゥプナハにかかわるウパッツァヌシバラムトゥ(大兄の後原元)・トゥマイヤームトゥ(泊屋元)・ウプヤームトゥ(大家元)・チラ(語義不詳)などの拝所がある。九月のサトゥプナハは来訪神(パーントゥ)に扮した全身泥にまみれ仮面を被った若者が村中を練り歩き、人・物に泥を塗り無病息災を祈るもの。嘉靖年間(一五二二―六六)役人になった白川氏五世赤人大親の義父が「新志氏島尻首里大屋子」になっている(白川氏正統家譜)。万暦二三年(一五九五)八月二九日の辞令書(県立博物館蔵)に「しましりのしよりの大やこ」とみえ、大宮古うぷみやーく間切の元の島尻の首里大屋子の所領から田三カリヤ・一三マシ、畑一〇〇ヌキ・六オホソが下地大首里大屋子に与えられ、これらの分の貢租は免じるという。

島尻村
しまじりむら

[現在地名]久米島町島尻しまじり

仲里なかざとう間切の南端に位置し、北は比嘉ひが村・山城やまぐしく村・儀間じま村。東・南・西は東シナ海に面し海岸は懸崖をなす。中央部を島尻川が東流し、河口付近に集落が形成されている。北西の儀間村との間に阿良あーら(二八七メートル)がある。「おもろさうし」巻二一の一〇〇に「一 しましりにあつる(島尻にある)/つしやこの まかねたま(粒の真金玉〔でもって〕)/世 そろへて みおやせ(世を揃えて奉れ)/又 きこゑあんしおそいや(有名な按司襲いは)/又 とよむあんしおそいや(鳴響む按司襲いは)」とある。絵図郷村帳に島尻村とみえる。琉球国高究帳では高頭六二石余、うち田四九石余・畠一三石余。古集落は儀間の阿良岳山中の与那嶺ゆなにに発し、タカマシバル、塩原すーばるなど幾度か集落の移動を繰返したという(沖縄久米島資料編)。丘陵地から順治五年(一六四八)に島尻村内兼久かにく(海岸の砂地)に移住したという(「球陽」尚質王元年条)

島尻村
しまじりむら

[現在地名]那賀川町島尻

江野島えのしま村の西に位置し、北は坂野さかの(現小松島市)。慶長二年(一五九七)の分限帳には島尻がみえ、高二一二石余が落合甚太郎知行分。また内藤甚右衛門知行分として島尻村高一〇〇石、百姓三人があり、片山次左衛門分加増とみえる。寛永七年(一六三〇)の知行割符帳(蜂須賀家文書)によると高一一一石余を堺一右衛門、高五四石余を福岡新之丞、高六〇石を児玉伝兵衛が知行しており、百姓もそれぞれに割付けられている。正保国絵図では高五六八石余。

島尻村
しまじりむら

[現在地名]魚津市島尻

片貝かたかい谷入口の片貝川左岸にあり、北西は貝田新かいだしん村。寛永九年(一六三二)島尻村領での竹木の伐採や植林が許されている(「竹木取立林申付状」東京都伊藤家文書)正保郷帳では高四九四石余、田方三〇町五反余・畑方二町三反余、新田高二二石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(島尻公民館蔵)によると草高六三九石・免五ツ九歩、小物成は山役一〇八匁・蝋役一六匁・鱒役三匁・鮎川役三匁。

島尻村
しまじりむら

[現在地名]知名町住吉すみよし

沖永良部おきのえらぶ島の最西端部馬鹿ばーじま村の南に位置する。国頭くんぜー(現和泊町)に対する島尻という地名であるが、琉球入ノ記(旧記雑録)に慶長一四年(一六〇九)薩摩軍の琉球進攻のとき、上陸してきた兵と戦わずして降伏したことから「馬鹿尻」と名付けられたと記されており、バーシマジリの地名伝承となっている。飲水は地下の鍾乳洞クラゴーから汲んでいた。初め大城ふうぐすく間切、安政四年(一八五七)から西にし方に属した。文政一一年(一八二八)異国船が島尻沖に漂来し乗組員が知名湊に上陸した。

島尻村
しまじりむら

[現在地名]伊平屋村島尻しまじり

伊平屋いへや島南部に位置する。伊平屋いひや島を構成する八行政村の一つ。「琉球国由来記」に記される祭祀は公儀祈願所の「島尻大屋子火神」、島中拝所の「阿波嶽御イベ」など。絵図郷村帳に島尻村とみえる。琉球国高究帳では島尻村として高頭一三八石余のうち田八一石余・畠五六石余。「球陽」尚王一七年(一八二〇)条によれば、用水源である上の川に至る道は遠いうえに狭く毒蛇も多いため、前任夫地頭西銘親雲上が村近辺に掘り井戸を築いた。二つの井のうち一つはかれやすいため村民はもっぱら我陽かよう(賀陽山)の下の井を利用したが、不便で危険なため同井から水を引いて利便性を高めたという(同書尚泰王七年条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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