改訂新版 世界大百科事典 「崔忠献」の意味・わかりやすい解説
崔忠献 (さいちゅうけん)
Ch`oe Ch`ung-hǒn
生没年:1149-1219
朝鮮,高麗の武臣で崔氏武人政権の創立者。初名は鸞(らん),諡(おくりな)は景成。牛峯郡の人。武臣の家に生まれ,1174年趙位寵の反乱の鎮圧で武名をあげ,国軍のなかで地位を高めていった。当時,武人李義旼(ぎびん)が政界を支配していた。96年忠献は弟や族人をひきいて義旼を暗殺し,つづいて府兵を動員して義旼支持者を殺害追放し,一挙に政権を掌握した。以後,何度も国王を廃立し,反対派を追放する一方,国軍にまさる強力な家兵を養成し,全国に農荘(私有地)を広げ,権勢を誇った。また晋康侯に封ぜられ晩年には高麗王室の姓の王を賜り,葬儀は国王のそれに従った。忠献のあと崔瑀(う)(怡),崔沆,崔竩(ぎ)が代々政権を継承した。瑀の代から政房という政庁を崔氏の私邸におき人事を処理した。こうして崔氏は4代にわたって政権を握ったが,1231年から蒙古の侵入が始まり,その戦乱の過程で58年竩が暗殺され崔氏は滅亡した。
執筆者:旗田 巍
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報