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崔忠献 さいちゅうけんCh'oe Ch'unghǒn

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

崔忠献
さいちゅうけん
Ch'oe Ch'unghǒn

[生]毅宗3(1149)
[没]高宗6(1219)
朝鮮,高麗の代表的武人政治家。初名は鸞。牛峯の人。 12世紀後半,西京で趙位寵が反乱を起したとき鎮圧にあたり功があり,のち地方,中央の有力官職を歴任。当時の最有力者であった李義びん一党を粛清し実権を握り,国王明宗に弊政の改革を要求する封事 10条を献上した。明宗がこれを施行しないので明宗 27 (1197) 年,明宗を幽閉し,神宗に譲位させ,名実ともに高麗の最大実力者となった。神宗の跡を継いだ煕宗は,崔忠献に功臣開国侯の称号を与えている。煕宗5 (1209) 年都定都監をおき,以後ここが武臣政権の実質的な中央機関となった。崔忠献の死後,崔氏政権は,崔怡 (→崔 瑀〈さいう〉 ) ,崔こう,崔ぎと4代にわたり約半世紀以上高麗朝に支配的地位を占めた。

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世界大百科事典 第2版の解説

さいちゅうけん【崔忠献 Ch‘oe Ch‘ung‐hŏn】

1149‐1219
朝鮮,高麗の武臣で崔氏武人政権の創立者。初名は鸞(らん),諡(おくりな)は景成。牛峯郡の人。武臣の家に生まれ,1174年趙位寵の反乱の鎮圧で武名をあげ,国軍のなかで地位を高めていった。当時,武人李義(ぎびん)が政界を支配していた。96年忠献は弟や族人をひきいて義を暗殺し,つづいて府兵を動員して義支持者を殺害追放し,一挙に政権を掌握した。以後,何度も国王を廃立し,反対派を追放する一方,国軍にまさる強力な家兵を養成し,全国に農荘(私有地)を広げ,権勢を誇った。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

崔忠献
さいちゅうけん
(1149―1219)

朝鮮、高麗(こうらい)の政治家。1170年、鄭仲夫(ていちゅうふ)らのクーデターが成功して武臣が権力を掌握したが、武臣相互の抗争により権力が不安定であったこともあって、全国的に農民、奴婢(ぬひ)の反乱が起こった。これらの反乱の鎮圧に武臣として功をたて、頭角を現したのが崔忠献である。96年、弟の忠粋と謀って、当時権力を握っていた李義(りぎびん)を殺し、これにかわって権力を掌握すると、以後すべての敵対勢力を次々と制圧し、強力な独裁政権を樹立した。崔忠献の政権を支えたのはその私兵集団であり、彼の集積した私田がその経済的基盤となった。彼の死後も、崔氏の武人政権は1258年まで続いた。[浜中 昇]

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世界大百科事典内の崔忠献の言及

【武人政権】より

…この両乱を庚癸の乱というが,これで文臣の力は失われた。しかしその後も武人相互の権力争いがつづき,李高は李義方に,李義方は鄭仲夫に,鄭仲夫は慶大升に殺され,李義崔忠献(さいちゆうけん)に殺された。その後,崔氏は忠献,瑀(怡),沆,竩と4代にわたって政権を握ったが,蒙古との抗争の中でクーデタによって倒された。…

【万積の乱】より

…1170年に鄭仲夫ら武臣のクーデタで文臣政権が倒れ武人政権が出現したが,武人相互の殺し合いで政情不安が続いた。その時期に農民・賤民の一揆反乱が続発したが,98年(神宗1年)私奴万積ら6人が公私の奴隷を集め,日を定めて一斉蜂起し,まず最高権力者崔忠献を殺し,私奴はそれぞれ主人を,官奴は宮城内で役人を殺し,奴隷の戸籍台帳を焼いていっさいの公私奴隷を解放しようと提案した。みな賛成したが,約束の日には数百人しか集まらなかったので,日を改めて蜂起することにした。…

※「崔忠献」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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