出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
(内田篤呉)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
江戸末期から明治に活躍した蒔絵師(まきえし)。幼名源二郎、のち平右衛門を襲名。江戸・浅草永住町に生まれ、12歳のころから徳川家蒔絵所幸阿弥因幡(こうあみいなば)の仕手頭(してかしら)、武井藤助について修業し、1850年(嘉永3)自立して一朝と号し、2年ののち徳川家蒔絵方となる。87年(明治20)皇居造営に際して学問所や広間鏡板に蒔絵を施工し、とくに97年から6年間の歳月を費やして完成した菊蒔絵書棚(宮内庁)は有名。96年帝室技芸員となる。一方、94年に東京美術学校蒔絵科の嘱託教員、97年教授に任ぜられ後進の指導にあたったが、1905年(明治38)病気により辞した。作風は、堅実な写生に基づいた意匠を入念な技術によって金色燦然(さんぜん)と表し、いわゆる大名物としての格調高く、幸阿弥派最後の名手として、当時の漆芸界に重きをなした。
[郷家忠臣]
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…彼の活躍した元禄期は,蒔絵史上,常憲院(綱吉の院号)時代といい,精巧さ,豪華さにおいて,複雑な蒔絵技巧の頂点を示し,その作品は注文先の諸大名へ多数行き渡った。以後19代長賢まで幕府に仕え,幸阿弥蒔絵の伝統は,明治時代,川之辺一朝(1830‐1910)に受け継がれた。蒔絵【郷家 忠臣】。…
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[近代以後]
明治維新によって主を失った御用蒔絵師は活躍の場もなく貧困にあえいだが,逆境に抗して蒔絵の伝統を守った。幕末から明治にかけては柴田是真,中山胡民(1808‐70)らが,明治になって川之辺一朝(1830‐1910),白山松哉(1853‐1923),小川松民(1847‐91)らの名工が出た。1889年には東京美術学校が開校し,漆工科が設けられ,その門から六角紫水らが輩出し,以後漆芸界の指導的立場を担った。…
※「川之辺一朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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