日本大百科全書(ニッポニカ) 「川崎・三菱造船所争議」の意味・わかりやすい解説
川崎・三菱造船所争議
かわさきみつびしぞうせんじょそうぎ
1921年(大正10)6月から8月にかけて、川崎、三菱両神戸造船所で発生した戦前期日本の最大規模の労働争議。第一次世界大戦のなかば以降高揚した労働者の運動は、1920年の戦後反動恐慌によって厳しい状況に追い込まれた。大日本労働総同盟友愛会の活動家の間には、労働力の集団的な取引を制度として確立していかない限り、既得権益の維持すら困難だという認識が広がり、21年には阪神地方の重工業大経営で、団体交渉制の確立を目ざす労働争議が頻発した。そのピークをなしたのが川崎・三菱造船所争議であった。
同争議は、友愛会の主力「神戸連合会」が指導し、全国から多くの労働者が支援に駆けつけ、最終段階には友愛会が本部を神戸へ移すなど、個別企業の枠を超えた全労働者階級の闘いへと発展した。一方経営者側は、労働者の要求が労資関係の枠組みに関することであるために、大量の解雇とロックアウトをもって応じ、厳しい態度で臨んだ。また、7月に労働者が「工場管理」を宣言してからは、警察に加えて憲兵隊が出動し、弾圧を強めた。こうして争議は労働者の「惨敗宣言」をもって終息し、以後友愛会は大経営における影響力を失うに至った。
[三宅明正]
『大前朔郎・池田信著『日本労働運動史論』(1966・日本評論社)』