川崎(読み)カワサキ

デジタル大辞泉 「川崎」の意味・読み・例文・類語

かわさき【川崎】[地名]

神奈川県北東部の市。多摩川の南岸にあり、東海道の宿場町として発展。京浜工業地帯の中核をなす大工業地。昭和47年(1972)指定都市。人口142.6万(2010)。
川崎市の区名。川崎大師の門前町。
[補説]川崎市の7区
麻生区、川崎区、幸区高津区多摩区中原区宮前区

かわさき【川崎】[姓氏]

姓氏の一。
[補説]「川崎」姓の人物
川崎九淵かわさききゅうえん
川崎かわさきのぼる
川崎洋かわさきひろし

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精選版 日本国語大辞典 「川崎」の意味・読み・例文・類語

かわ‐さきかは‥【川崎】

  1. [ 1 ] 〘 名詞 〙
    1. 川の流れに突き出た所。
      1. [初出の実例]「あれに見えたる川崎のみ堂へおん出であってお泊りやれや」(出典:謡曲・鵜飼(1430頃))
    2. かわさきぶね(川崎船)」の略。
      1. [初出の実例]「一艘は水船になってしまったために、〈略〉別の川崎に移って、帰ってきた」(出典:蟹工船(1929)〈小林多喜二〉三)
  2. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 神奈川県北東部の地名。鎌倉時代に河崎氏の館があり、江戸時代には東海道の宿場として栄えた。現在の市域は東京都と横浜市との中間を多摩川沿いに長く広がり、東京湾に面する埋立地は京浜工業地帯の核心部。大正一三年(一九二四)市制。昭和四七年(一九七二政令指定都市
    2. [ 二 ] 神奈川県川崎市の行政区の一つ。昭和四七年(一九七二)成立。市東端に位置し、臨海部は京浜工業地帯の中心。川崎市役所、川崎大師がある。

かわさきかはさき【川崎・河崎】

  1. 姓氏の一つ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「川崎」の意味・わかりやすい解説

川崎(市)
かわさき

神奈川県北東部にある日本有数の工業都市で政令指定都市。1924年(大正13)川崎、大師(旧、大師河原村)の2町と御幸(みゆき)村が合併して市制施行。1927年(昭和2)田島町、1933年中原町、1937年高津(たかつ)町、橘(たちばな)村、1938年宮前(みやまえ)、向丘(むかおか)、生田(いくた)の3村と稲田町、1939年柿生(かきお)、岡上(おかがみ)の2村を編入。1972年(昭和47)に政令指定都市に移行し、川崎、幸(さいわい)、中原、高津、多摩(たま)の5区を設定。1982年高津、多摩の両区をそれぞれ高津・宮前区、多摩・麻生(あさお)区に分区して7区となった。麻生区の岡上地区は南西の東京都町田市を挟んだ飛地。面積143.01平方キロメートル。人口153万8262(2020)。近年は北部地域で住宅地開発が著しく、人口増加が激しい。

[浅香幸雄]

自然

地形は、多摩丘陵と多摩川下流平野からなる。市内の多摩丘陵はほとんどが標高100メートル以下で下多摩面とよばれ、JR南武線武蔵溝ノ口(むさしみぞのくち)駅付近から南西部は標高60メートル以下の下末吉(しもすえよし)台地で、もとは台地状をなしていた。台地は切土(きりど)、侵食谷は盛り土されて、住宅団地や遊園地となっている。しかし、東流する五反田(ごたんだ)川(小田急電鉄沿線)と南流する矢上川沿いには狭長な低平地が開けている。多摩川平野も、溝口(みぞのくち)(高津区)付近を境に、上流は扇状地、下流は三角州をなし、かつて三角州地域にみられた蛇行流は、大正時代の河川改修でほとんど直線状になっている。気候は、南東部は臨海性と都市気候とによってやや高温少雨であるが、中部、北西部では内陸性に移行する。そして、南部地区では工業開発に伴う大気と海水の汚染と、中部、北西部では住宅地開発による降雨期の崖(がけ)崩れ、河川の氾濫(はんらん)のおそれが増加する傾向にあり、防災対策が進められている。

[浅香幸雄]

歴史

多摩丘陵は、縄文、弥生(やよい)、古墳の諸時代遺跡の宝庫といわれ、先史時代にもよく開けていたことを物語る。なかでも子母口貝塚(しぼくちかいづか)(高津区、県指定史跡)は縄文時代早期後半の子母口式土器の標式遺跡(標準遺跡)とされ、夢見ヶ崎古墳群(加瀬台古墳群(かせだいこふんぐん)。幸区、県指定史跡)は古墳時代後期の円墳群として知られる。古代の東海道は市域の中部を通っていたと考えられ、これに沿う低平地には条里制の遺構がみられる。ついで古東海道は南東へ移されてほぼ現在の国道15号のコースとなり、大治(だいじ)年間(1126~1131)平間寺(へいけんじ)(川崎大師)が創建された。このころにはまた橘御厨(たちばなのみくりや)が置かれ、小沢、稲毛、河崎の諸氏によって名田(みょうでん)開発や荘園(しょうえん)が設けられ、これらの諸豪族は源氏に協力して鎌倉幕府の成立を助けた。近世初頭の宿駅制度の発足にあたっては、川崎は1623年(元和9)に東海道の宿場と定められた。川崎宿は初めは江戸幕府の補助金(冥加金(みょうがきん))によってようやく経営されていたが、江戸中期以後は多摩川を下ってくる木材の集散地としてしだいに栄えるようになった。また、そのころから江戸への消費物資輸送のため、中原、矢倉沢(やぐらさわ)、津久井(つくい)の脇往還(わきおうかん)が整えられ、これらに沿う小杉(中原区)、溝口・二子(ふたご)(高津区)、登戸(のぼりと)(多摩区)の3宿は、秦野(はだの)のタバコや津久井地方の絹織物、さらに駿(すん)・豆(ず)・遠(えん)州(静岡県)や甲州(山梨県)の産物輸送の中継地をも兼ね、また醸造(酒、しょうゆ)や木工(下駄(げた)、足駄)、製紙などの工業もおこってにぎわっていた。こうして各宿場町は、東海道、脇往還ともに旅行者の休泊のほか、沿道農山漁村の産物の加工と流通の基地となり、村々の生産活動もしだいに多角化していった。

[浅香幸雄]

産業

川崎市は京浜工業地帯の中心で、かつては日本一の工業生産額をあげ、出入貨物量でトップクラスの大港湾を有し、世界的な大産業都市として知られた。しかし、1980年代後半から1990年代にかけてはその地位も低下した。1872年(明治5)の東海道本線の開通によって宿場町である川崎は深刻な打撃を受けたが、近代工業を導入して再起を図る方針を採用した。その効果はようやく日露戦争後に現れ、川崎駅付近と近接する多摩川沿岸に機械、食料品、繊維などが、また海岸の埋立地に金属などの近代工場が進出して工業化の先駆をなした。続いて第一次世界大戦中から関東大震災のころにかけては東京、横浜の大工場の移転地となった。さらに第二次世界大戦から戦後にかけては、臨海部(川崎区)に加えて内陸部(幸・中原区)にも工業が発達し、昭和30~40年代の高度経済成長期には京浜工業地帯の中核地域に発展していった。同時に、大気汚染などの公害が表面化するなどして、大きな社会問題となった。

 工業地域は大きく二つの地域に分類できる。臨海地域には鉄鋼、化学、石油精製、石油化学などの基礎素材工業やエネルギー産業、それらに付属する諸産業や港湾などの関連施設が多く集まり、とくに工場専用埠頭(ふとう)群や貿易埠頭群は世界的規模を誇っている。一方、内陸地域には電機、自動車、機械、金属加工、食品など多種類の加工、組立工業が展開している。これらの諸工場は関連下請工場の多くを東京都内に依存し、また分工場や研究所を神奈川県央地域(相模原(さがみはら)・大和(やまと)・厚木(あつぎ)市など)にもっているのが特色である。

 1980年代後半以降に入ると、円高やバブル経済の崩壊などによって生産拠点の海外移転やリストラが断行され、事業所数が減少して「空洞化現象」が進んでいった。こうした「地盤沈下」に歯止めをかけるため、1989年(平成1)には高津区にかながわサイエンスパークを設立して、最先端技術の研究を本格的に行っている。また川崎区水江町にある川崎ゼロ・エミッション工業団地は資源循環型の新しい工業団地として注目されている。

 川崎市の商業は、政令指定都市にもかかわらず、東京と横浜の間に埋没しがちであり求心力に欠ける。そこで川崎市は「川崎新時代2010プラン」を策定し、大規模な都市開発計画を進めることになった。これは、都心として川崎駅周辺、新川崎・鹿島田駅周辺、小杉駅周辺、新百合ヶ丘(しんゆりがおか)駅周辺の各地区、副都心として溝の口駅周辺、宮前平・鷺沼(さぎぬま)駅周辺、登戸駅周辺の各地区を位置づけ、商業地域の開発を進める計画であった。また、農業は伝統的に多摩川流域に「長十郎」で有名なナシをはじめとした果樹栽培が盛んで、北部の多摩区などではカキ、クリも栽培され、近郊農業の野菜とともに川崎の農業の主力であった。しかし、都市化の進展するなかで農業は衰退の一途をたどり、耕地面積の減少や後継者不足などの問題が生じた。そこで、観光農園や農業祭りなどを開いて新住民との共生を目ざす農業もみられるようになった。

[比佐隆三]

交通

多摩川右岸沿いに長く広がる市域は、東京都と横浜市、神奈川県央地域との中間地域をなし、南部にはJRの東海道本線、横須賀線(よこすかせん)、鶴見(つるみ)線、京浜東北線のほか、京浜急行電鉄本線・大師線、中央部に東急電鉄の東横線、田園都市線、北部には小田急電鉄、京王電鉄の各線が通じ、JR南武線は市域を南北に連絡している。幹線道路も鉄道と同じく東西方向が多く、南部に国道1号、15号、132号、357号(東京湾岸道路)が、中央部に246号が通じ、さらには東名高速道路、第三京浜道路、首都高速道路が走る。そのほか、多摩川に並行する形で国道409号が走り、東京湾横断道路(アクアライン)を通じて千葉県と結ばれる。川崎港には工場専用埠頭のほか、民営の三井、東洋両埠頭、川崎市営埠頭がある。また、長距離フェリーが宮崎に通じていたが2005年運行を休止した。木更津(きさらづ)(千葉県)との間のフェリーボートは1997年(平成9)12月に東京湾横断道路が開通したため廃止された。

[浅香幸雄]

観光・文化

南部の川崎区にある川崎大師(平間寺)は、成田山新勝(しんしょう)寺(千葉県)、高尾山薬王院(やくおういん)(東京都)とともに真言宗智山(ちさん)派の関東三山の一つとして日本でも屈指の参拝客を集めている。多摩川沿岸は風致地区で、等々力(とどろき)緑地とスポーツ施設「川崎市とどろきアリーナ」、市民ミュージアムがあり、右岸堤防はサイクリングコース。生田緑地は市民向けの緑地で、生田緑地内の日本民家園は民家博物館として知られ、国指定重要文化財の民家も10棟近くに上る。そのほか、夢見ケ崎動物公園、青少年科学館「かわさき宙(そら)と緑の科学館」、岡本太郎美術館などもある。また、よみうりランドなど民営の大規模遊園、それに東芝未来科学館などがみられ、ゴルフ場も多い。1927年に小田原急行鉄道(現、小田急電鉄)の開通と同時に開園したレジャー施設の向ヶ丘遊園は、1000種のバラが咲く「ばら苑(えん)」(現、生田緑地ばら苑)や大観覧車などで親しまれたが2002年に閉園した。

 文化財としては、影向寺(ようごうじ)(宮前区)の薬師如来(にょらい)および両脇侍(わきじ)像(平安後期)は国指定重要文化財、広福寺(こうふくじ)(多摩区)の地蔵菩薩(ぼさつ)(平安時代)と聖観音(しょうかんのん)(鎌倉時代)の両立像は県指定重要文化財。子母口貝塚、馬絹(まぎぬ)古墳は県指定史跡。民俗芸能にも興味あるものが少なくなく、年占いの悪魔払い神事の歩射(ぶしゃ)(中原区上丸子、多摩区長尾)と、獅子舞(ししまい)(幸区小向(こむかい)、多摩区菅(すげ))が知られる。また井田(中原区)、登戸(多摩区)、馬絹(宮前区)に田植唄(うた)、生田(多摩区)に馬引唄、上平間(かみひらま)(中原区)では甚句(じんく)(祝唄)が歌われる。年中行事では、川崎大師の初大師、麻生不動院のだるま市が有名。

[浅香幸雄]

『中出栄三他著『躍進する川崎』(1964・実業之日本社)』『『川崎市史・年表』全2冊(1968・川崎市)』『小塚光治著『川崎史話』(1987・桐光学園教育研究所)』『『川崎市史』全9巻11冊(1988~1997・川崎市)』『川崎市の昭和史編纂委員会編『写真集 川崎市の昭和史』(1995・千秋社)』



川崎(町)(宮城県)
かわさき

宮城県南部、柴田郡(しばたぐん)にある町。1948年(昭和23)町制施行。雁戸山(がんとやま)、蔵王山(ざおうさん)の東麓(とうろく)、名取(なとり)川の支流碁石(ごいし)川、前川の流域を占める。町域の大部分は山林である。藩政時代には奥州街道宮宿(みやじゅく)と山形城下を結ぶ笹谷街道(ささやかいどう)が通じ、参勤交代や出羽(でわ)三山詣(もう)で、米穀、紅花(べにばな)運搬などに主要な役割を果たした。明治以降、利用価値が低下したが、近年笹谷街道は国道286号となり、また1981年に笹谷トンネルが開通し仙台―山形間の主要幹線の一つとなっている。さらに1990年(平成2)には山形自動車道が開通し、宮城川崎、笹谷の両インターチェンジが設置されている。また、国道457号も通じている。釜房ダム(かまふさだむ)は仙台市への水の供給池(釜房湖)で、そのほとりには国営みちのく杜(もり)の湖畔公園がある。蔵王山麓は国定公園に含まれ、青根温泉(あおねおんせん)、峩々温泉(ががおんせん)がある。滝前不動のフジは国の天然記念物。面積270.77平方キロメートル(一部境界未定)、人口8345(2020)。

[青柳光太郎]



川崎(町)(福岡県)
かわさき

福岡県中央部、田川郡にある町。1938年(昭和13)町制施行。東部は古第三紀層の丘陵地、西部は戸谷(とや)ヶ岳(702メートル)をはじめ古生層、花崗(かこう)岩からなる山地が展開、中央部を中元寺(ちゅうがんじ)川の河谷低地が南北に伸び、JR日田彦山(ひたひこさん)線が通じる。JR上山田(かみやまだ)線は1988年に廃止となった。また北部を国道322号が走る。明治末期以降、古河大峰(ふるかわおおみね)、三井田川などの炭鉱を有する炭鉱町として発達したが、昭和30年代後半すべて閉山され、産炭地振興事業として、縫製、機械工業などの企業誘致が進められた。西部の真崎(まさき)は野菜産地として知られ、南部の安真木(あまぎ)は木材の生産も盛んであるが、北部では沈下、陥没などによる鉱害が目だつ。県指定天然記念物の菩提樹(ぼだいじゅ)の茂る光蓮(こうれん)寺、国指定名勝の藤江氏魚楽園(ふじえしぎょらくえん)(庭園)などがあり、正八幡(しょうはちまん)神社の杖楽(つえがく)は県指定重要無形民俗文化財。面積36.14平方キロメートル、人口1万5176(2020)。

[石黒正紀]

『『郷土読本 われわれの川崎』(1969・川崎町)』『『川崎町史』全2巻(2001・川崎町)』



川崎
かわさき

岩手県南部、東磐井郡(ひがしいわいぐん)にあった旧村名(川崎村(むら))。現在は一関(いちのせき)市のほぼ中央部に位置する地域。1956年(昭和31)薄衣(うすぎぬ)、門崎(かんざき)の2村が合併して成立。2005年(平成17)一関市に合併。JR大船渡(おおふなと)線、国道284号が通じる。北上川に注ぐ砂鉄(さてつ)川、千厩(せんまや)川流域に耕地が開ける。かつては水害常襲地であったが、河川改修が進んだ。薄衣地区は北上川舟運の河港として栄えた。米作、葉タバコ栽培、養蚕、製糸が盛んであったが、養蚕、製糸は衰退した。テッポウユリを特産する。神楽(かぐら)をはじめ伝統芸能の継承に力を入れ、北上大橋下流の花火大会は有名。

[川本忠平]

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改訂新版 世界大百科事典 「川崎」の意味・わかりやすい解説

川崎[市] (かわさき)

神奈川県東部にある市。市域は北西部の多摩丘陵から南東部の東京湾岸まで多摩川に沿って細長く延びている。北は多摩川を挟んで東京都に接し,南は横浜市に隣接する。東京湾岸は埋め立てられて工業地区となり,京浜工業地帯の中核をなす工業都市である。1924年川崎町,大師町と御幸村が合体,市制。人口142万5512(2010)。市制施行後,数次の編入によって市域を広げ,72年政令指定都市となり,川崎,幸,中原,高津,多摩の5区を設けた。82年北西部の人口増にともない,高津区,多摩区から宮前区,麻生(あさお)区を分区した。江戸時代の川崎は多摩川の渡し場集落として,東海道の一宿であった。また多摩川の自然堤防上に川崎大師で知られる平間(へいげん)寺があり,その門前町があった。1907年国鉄の多摩川鉄橋の橋詰に横浜精糖(後に明治製糖)が設立されて近代工業の先駆けとなり,次いで東京芝浦電気,日本コロムビア,味の素などの工場も建設され,工業地区が形成された。13年浅野総一郎,安田善次郎らにより,横浜の鶴見川河口から川崎に至る臨海工業地区の造成が始まり,28年約5.8km2の埋立地と,横浜港と東京港を結ぶ京浜運河が完成,日本鋼管(現,JFE),浅野セメント(現,太平洋セメント),昭和肥料(現,昭和電工),日清製粉,富士電機などの並ぶ大工場地帯が生まれた。1924年横浜,横須賀に次いで県内3番目に市制を施行したが,当時の人口は4万人足らずであった。第2次世界大戦による戦災で工場地帯は壊滅したが,戦後の復興により地位を回復した。57年から63年にかけて多摩川河口に3.8km2の埋立地が造成され,日本石油系,東亜燃料系の石油コンビナートが生まれた。71年から75年にかけては,京浜運河の外側に扇島埋立地が造成され,日本鋼管の新鋭設備による工場が誕生した。この埋立地には公共用地が確保され,東京湾岸道路の一環となる。近年の科学技術の高速な進歩にともなって,それに対応する施設が市内各所に設立されている。県立のかながわサイエンスパーク(高津区)や市立の川崎総合科学高校(幸区)などがあげられる。川崎の市街地はJR東海道本線などの川崎駅東側を中心部とするが,東京と直結する東急東横線,同田園都市線,小田急線と,川崎駅から発し,市域を多摩川沿いに走るJR南武線との交点である武蔵小杉,溝ノ口,登戸の各駅周辺が,副都心的性格をもつ。北西郊の開発は急速に進み,田園都市線,小田急線・小田急多摩線・東急田園都市線沿線にニュータウンの建設が顕著である。国道1号線が通じ,東名高速道路のインターチェンジがある。
執筆者:

多摩丘陵には数多くの原始・古代の遺跡が分布しているが,そのうち60%以上が縄文時代の遺跡である。旧石器遺跡は麻生区黒川東遺跡のローム層から搔器と刃器などが発掘され,また縄文早期の高津区子母口(しぼくち)貝塚は,子母口式土器の標式遺跡として県史跡に指定されているが,マガキ,シジミ,イノシシ,シカなどが発見されている。なお縄文中期の宮前区潮見台遺跡や初山遺跡には6~8軒の住居址があり,集落景観がよくわかる。また高津区梶ヶ谷神明社上遺跡からは多量の土器,鉄器,管玉,磨石などが出土し,資料価値の高い鉄斧も発見されている。弥生後期から古墳時代においては,宮前区東高根遺跡に弥生時代の集落があり,多摩区長尾鯉坂遺跡からは一辺20mの大型の方形周溝墓が発掘されている。さらに幸区加瀬の周辺にある白山古墳は,4世紀後半に築造された87mの前方後円墳であるが,副葬品には三角縁神獣鏡が発見されており,これは大和政権の首長が分与したもので,初期の武蔵国造職に相当する人物が埋葬されたとみられる。市域では円墳も多く分布しているが,6世紀後半の仏教伝来により火葬の風習も広まり,50個余りの骨蔵器が出土している。7~8世紀に宮前区野川の影向(ようごう)寺が創建され,中央の文化が伝播してきたが,重要文化財に指定された薬師三尊は有名である。平安時代後期には武蔵平氏の一族河崎基家が開発領主であった河崎荘,また幸区には加瀬荘,中原区には丸子荘,中原区から高津区にかけては稲毛荘があった。鎌倉時代には稲毛荘の領主に源頼朝の姻戚稲毛三郎重成が多摩区の小沢城や枡形城を構えており,鎌倉の防衛線として重要な位置を占めていた。こうした山城の間に頼朝が源家の祈願所とした威光寺(現在は妙楽寺がある)があった。市域の中央部周辺は戦国時代には小田原北条氏の姻族世田谷吉良氏の勢力範囲にあり,中原区上小田中の泉沢寺には門前市が開かれていた。

 1590年(天正18)徳川氏の関東入国により,市域80ヵ村が検地によって成立したが,1611年(慶長16)には代官小泉次大夫が稲毛,川崎の二ヶ領用水を開削し,60ヵ村の水田地域の基礎を作った。また市域を横断して江戸に直結する中原・矢倉沢・津久井往還が発達したが,23年(元和9)には東海道の川崎宿が成立した。また大師河原村周辺に塩田が開かれた。川崎宿は財政窮乏化したが,本陣,問屋,名主を勤めた田中丘隅により1709年(宝永6)より川崎宿に渡船請負権が許可され,宿駅の財政維持に大きな役割を果たした。丘隅はのち民政の書である《民間省要》を将軍吉宗に献上し,支配勘定格となり約3万石を支配し治水,改修工事などに参画した。名主池上幸豊は,砂糖の製造や池上新田の開発に努めた。
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川崎[町] (かわさき)

宮城県南西部,柴田郡の町。人口9978(2010)。名取川の支流碁石川上流の山間地を占め,総面積の8割が山林である。奥羽山脈をこえて仙台・山形両市を結ぶ笹谷街道(国道286号線)が通じ,明治中期までは物資の流通でにぎわった。中心集落の川崎は近世は笹谷街道の宿駅で,川崎伊達氏の居館川崎要害が置かれていた。山間地域のため畑地の比率が高いが,米作のほか肉用牛肥育や酪農なども盛んになっている。北蔵王東麓は蔵王国定公園に含まれ,仙台藩主の湯治場であった青根温泉や峩々温泉があり,1962年の蔵王エコーライン(85年無料開放)の開通によって観光客がふえた。70年には碁石川に仙台市の上水源として釜房ダム(釜房湖)がつくられ,90年には山形自動車道の宮城川崎と笹谷の二つのインターチェンジが開通して,仙台近郊の行楽地となっている。
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川崎[町] (かわさき)

福岡県中央部,田川郡の町。人口1万8264(2010)。北は田川市に接する。南北に細長い盆地状の地形で,遠賀川の支流中元寺川が町域の中央を南東から北西に貫流し,東側は低い丘陵が起伏し,西および南側はかなり急峻な花コウ岩の山地となっている。明治末期から東部に炭鉱が開発されて,一時は三井,古河をはじめ大小29の炭鉱をもつ筑豊炭田有数の大炭鉱町となったが,石炭産業の衰退により炭鉱のすべてが閉山し,過疎現象を生み,鉱害を残した。その後,工業団地の造成など産炭地振興を続け,製造業の雇用は増えたが,往時の石炭に代わる地位に至っていない。JR日田彦山線が通じる。
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川崎(岩手) (かわさき)

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百科事典マイペディア 「川崎」の意味・わかりやすい解説

川崎[市]【かわさき】

神奈川県東部,東京都と横浜市の間の市。1924年市制。1972年政令指定都市となる。川崎中原高津多摩宮前麻生の7区がある。江戸時代の東海道の宿場町であった旧川崎町と,川崎大師(平間(へいげん)寺)の門前町であった旧大師町を中心に発達した。大正〜昭和初期に東京湾岸の埋立てが進んで臨海工業地区の造成が始まり,川崎港および京浜運河が完成した。1951年川崎港が特定重要港湾に指定され,京浜運河南東側の埋立地には1960年代に石油コンビナート,1970年代には製鉄工場が進出した。現在製鉄,製粉,製油,電気機械,化学,電力など重工業が立地して3兆8354億円(2003)で県内2位の製造品出荷額を上げ,京浜工業地帯の中核をなす大都市となった。東海道本線,京浜東北線,横須賀線,南武線,東名高速道路,京浜急行線が通じ,東急田園都市線,小田急電鉄線が通じる多摩丘陵部では1960年代から港北ニュータウンの建設が急速に進んでいる。多摩川沿いにナシ,モモなど果樹栽培が盛ん。よみうりランドがある。1997年12月東京湾をまたいで千葉県木更津市との間に東京湾アクアラインが開通した。東日本大震災で,市内において被害が発生。143.00km2。142万5512人(2010)。

川崎[区]【かわさき】

神奈川県川崎市南東部の区。1972年区制。多摩川と鶴見川に挟まれた河口部にあたり,JR東海道本線以東の地域。東京湾岸は埋立地で昭和初期に完成した川崎港,京浜運河がある。臨海部は埋立地が造成されて京浜工業地帯の中核をなし,JFEスチール,日本石油,東京電力火力発電所などの重化学工場が集中,2兆7425億円(2003)の製造品出荷額を上げている。JR川崎駅前周辺は1986年の地下街完成と同時に再開発され,官公庁,銀行などのオフィスのほか,量販店,商店,図書館・教育文化会館などの文化施設が集中。多摩川の自然堤防上に厄除大師として知られる川崎大師(平間寺)がある。1997年12月には区の北東端に東京湾アクアラインが開通し,千葉県木更津市と結ばれた。39.53km2。21万7328人(2010)。

川崎[町]【かわさき】

宮城県南部,蔵王山北東麓を占める柴田郡の町。山林,原野が広く,米作,畑作,畜産が盛んでタバコ,コンニャクの特産がある。蔵王山麓には青根,峨々(がが)の温泉があり,蔵王国定公園に属する。山形自動車道が通じる。東日本大震災で,町内において被害が発生。270.77km2。9978人(2010)。

川崎[町]【かわさき】

福岡県中東部,田川郡の町。筑豊炭田の一角にあり,明治末期に炭鉱が開発され急速に発達,筑豊有数の炭鉱町となった。その後,石炭合理化による閉山で炭産地振興を図っている。日田彦山線が通じる。36.14km2。1万8264人(2010)。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川崎」の意味・わかりやすい解説

川崎
かわさき

岩手県南端,一関市中南部の旧村域。北上川東岸に位置する。 1956年薄衣村,門崎村が合体して川崎村が成立。 2005年一関市,花泉町,大東町,千厩町,東山町,室根村の6市町村と合体して一関市となった。地名は中世以来のもので由来に諸説がある。大部分は標高 350m前後の丘陵で,耕地は南流する砂鉄川,西流する千厩川の流域にわずかに開ける。古くから水害に悩まされてきたが,薄衣地区に堤防が築かれてから水稲栽培が安定。タバコ栽培のほかに,乳牛飼育やリンゴ栽培も行なわれている。

川崎
かわさき

静岡県南部,牧之原市北部の旧町域。駿河湾西側に面し,勝間田川の河口に位置する。 1889年町制施行。 1955年2村と合体して榛原町に,2005年相良町と合体して牧之原市になった。河港のある中心集落の静波は,江戸時代掛川藩の年貢米積出港として栄えた。海水浴場として知られ,付近には勝間田城跡,石雲院,竜眼山の旧跡がある。海岸沿いは御前崎遠州灘県立自然公園に属する。

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事典・日本の観光資源 「川崎」の解説

川崎

(神奈川県川崎市川崎区)
東海道五十三次」指定の観光名所。

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