川面村(読み)かわもむら

日本歴史地名大系 「川面村」の解説

川面村
かわもむら

[現在地名]高梁市川面町

郷帳類には河面と記すものが多い。今津いまづ村の北、八川やがわ村・柳分やなぎぶん村の西、六名ろくみよう村の南に位置し、西部の北は阿賀あが西方にしかた村、西は松山まつやま(現高梁川)を挟んで川上かわかみ飯部いいべ村・田井たい村。高梁川に沿う市場いちばを主集落に津和谷つわだに鴨谷かもだに広瀬ひろせ家地けじ八石はちこく西屋にしやなど多くの集落が川沿いや山間部に点在する。新見往来本道秋葉あきば峠を経て西方村に続き、副道が田井村にわたって山間地を北上している。寛永備中国絵図に村名がみえ、高五七一石余、松山藩領(以後の領主の変遷は松山西村に同じ)。またその北隣にみえる杉分すぎぶん(高五六四石余、松山藩領)も、のち当村に含まれている。正保郷帳には河面村とあり同高、宮林少・雑木少・芝草山大とあり、加茂谷かもだに村・津和谷村・広瀬村を枝村にあげる。古瀬杉分こせすぎぶん村も同高、宮林少・杉林少・芝草山大とあり、枝村に家地村を記す。


川面村
かわもむら

[現在地名]宝塚市川面一―六丁目・さくらおか御殿山ごてんやま一―四丁目・宮の町みやのちよう旭町あさひまち一―三丁目・武庫川町むこがわちよう栄町さかえまち一―三丁目・向月町こうげつちよう鶴の荘つるのそう・すみれガおか一―四丁目・清荒神きよしこうじん一丁目・小浜こはま三丁目・同五丁目・米谷まいたに一―二丁目・美座みざ二丁目・川面

有馬ありま街道沿いに川辺かわべ郡米谷村の西にあり、南東は武庫むこ見佐みさ村、西は有馬郡生瀬なまぜ(現西宮市)。古代河面牧、中世河面庄の遺称地。集落は上川面・下川面に分れ、上川面の集落は安場やすば村と人家・田畑とも入組み、時代によって武庫郡川辺郡との間で所属が変化したとみられるが、下川面は武庫郡に属して本郷とよばれていた(「川面村郡別高付分帳」中野家文書)。元和三年(一六一七)の摂津一国御改帳では幕府領建部与十郎預地。以降延享四年(一七四七)までは見佐村に同じで、同年篠山藩領となり幕末に至る(宝塚市史)


川面村
かわづらむら

[現在地名]鴻巣市川面

三ッ木みつぎ村の北東、元荒川右岸の低地にある。元荒川が蛇行しながら北へさらに南東へと流れ、西部から北部の境をなす。東は箕田みだ村の新田、西より北は埼玉郡ふくろ(現吹上町)。西から北境へと元荒川に沿って行田へ向かう道が通る。応安元年(一三六八)八月二一日の足利金王丸寄進状(鶴岡八幡宮文書)に「武蔵国箕田郷地頭職内河連村」とあり、寺社領と人給地を除き、鎌倉公方足利金王丸(氏満)から鎌倉鶴岡八幡宮へ寄進された。


川面村
かわおもてむら

[現在地名]足助町川面

足助川の上流に沿う。東は標高九八五・二メートルのはずヶ岳山麓、南は怒田沢ぬたざわ村、西はいち村・足原あしばら村、北は丹波たんば村・上垣内かみがいと村・上八木うばやぎ村に接する。集落は上切かみぎり・中切・下切に分れ、いずれも足助川が西流する谷地形の山麓に点在。縄文時代の遺跡が多く、川上から晩期の滝脇たきわき遺跡、後期・晩期の上貝戸かみがいと遺跡、晩期の日影ひかげ遺跡、早期・中期・後期・晩期の大屋敷おおやしき遺跡、時期不詳の中切遺跡がある。日影遺跡以外いずれも足助川右岸の河岸段丘で南面する山麓の傾斜地に立地。


川面村
かわもむら

[現在地名]矢掛町西川面にしかわも

川面小林かわもおばやし村の西、東流する小田川左岸の低丘陵地にある。西は宇内うない村。応長元年(一三一一)一一月日の備前国野田のだ(現岡山市)の庄官某保広言上状(東大寺文書)に備中国河面庄とみえ、同庄で夜討があったと記される。河面庄は当地に比定する説もあるが、一説では現岡山市域に比定される都宇つう河面かわも(天平一一年「備中国大税負死亡人帳」正倉院文書)と関連が深いともいわれる。

慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)に河面村とあり、小田郡に属し、高八三〇石余、伊予の藤堂高虎に加賜されている。寛永備中国絵図では旗本宮城領。正保郷帳では幕府領で枝村に宮脇村・向山村・伊勢谷村が載る。元禄二年(一六八九)の備中国幕府領村々覚帳(福武文書)では新検高九六五石余、田方六三町七反余・畑屋敷一六町六反余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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