埼玉県北部の都市。1949年(昭和24)忍(おし)町が市制施行し改称。1954年須加(すか)、荒木、北河原(きたがわら)、埼玉(さきたま)の4村、1955年星宮(ほしみや)村、1957年太田村を編入。2006年(平成18)北埼玉郡南河原村(みなみかわらむら)を編入。利根(とね)川、荒川の沖積低地に位置し、荒川扇状地東端の自噴地帯にもあたる。市域の南西端をJR高崎線と国道17号、中心部を秩父(ちちぶ)鉄道と国道125号が通る。市域には埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)や条里遺構などが存在し、古代から開かれていた。行田町は成田親泰(なりたちかやす)が延徳(えんとく)年間(1489~1492)忍城を築いたことに始まる。江戸時代は親藩か譜代(ふだい)の大名が城主となる忍藩10万石の城下町として発達した。江戸中期に藩士の子女の内職として始められた行田足袋(たび)は、明治以後も続けられた。しかし、生活様式の変化で、足袋生産は転換し、第二次世界大戦以後は被服縫製や靴下製造などを行ったが、1960年代から富士見工業団地が完成するにしたがい、電気機械器具、非鉄金属などの生産がはるかに多くなっている。市域北端の利根川には、近代的合口(ごうくち)の利根大堰(おおぜき)があり、東京の水道、見沼代用水(みぬまだいようすい)その他の用水を分水している。中央にある埼玉古墳群は国指定特別史跡で、古墳群を中心としたさきたま古墳公園には県立さきたま史跡の博物館や「はにわの館」がある。また、忍城址には郷土博物館があり、御三階櫓(やぐら)が再現されている。そのほか、古代のハスが開花する「古代蓮の里(こだいはすのさと)」もある。面積67.49平方キロメートル、人口7万8617(2020)。
[中山正民]
『『行田市史』上下(1963、1964・行田市)』▽『『行田市史』続巻(2003・行田市)』
埼玉県北部の市。2006年1月旧行田市が南河原(みなみかわら)村を編入して成立した。人口8万5786(2010)。
行田市の大部分を占める旧市。1949年忍(おし)町が市制施行して改称。54年須加,荒木,北河原,埼玉(さきたま),星宮の5村,57年太田村を編入。人口8万4720(2005)。荒川扇状地東端の湧水地帯から利根川南岸の加須(かぞ)低地にまたがる。開発の歴史は古く,東部には埼玉(さきたま)古墳群(史),西部の熊谷市にかけては条里遺構が残る。文明年間(1469-87)に成田親泰(ちかやす)が忍城を築いてから城下町としての歴史が始まり,江戸時代は忍藩が置かれて譜代の重臣が城主となり,行田足袋の生産も起こった。明治以後,足袋の町として全国に知られたが,第2次世界大戦後は服装の変遷とともに被服,靴下,スリッパなどに転換,1960年代に機械,金属などの工場も誘致された。秩父鉄道と国道125号線は市街地を通るが,JR高崎線と国道17号線は市域の南端をよぎっているにすぎない。県下有数の穀倉地帯で,水田の構造改善事業も進んでいる。68年北部の須加地先に完成した水資源開発公団による利根大堰と武蔵水路は現代科学の粋を集めた施設で,新しい観光地でもある。その沈砂池から直接引水する行田浄水場は1984年に完成,県北の給水事情は改善された。市街地南東方の埼玉古墳群一帯は〈さきたま風土記の丘〉として史跡公園になり,稲荷山古墳は国宝〈金錯銘鉄剣〉の出土で知られる。
→忍
執筆者:新井 寿郎
行田市北西端の旧村。旧北埼玉郡所属。人口4095(2005)。利根川と荒川にはさまれた低地にあり,熊谷市と旧行田市に囲まれている。古くは河原郷と呼ばれた。耕地のほとんどは水田であるが,経営規模が零細なため第2次大戦前から履物の生産や行商が行われてきた。1950年代半ばからスリッパの生産が盛んとなり,60年代後半には全国的産地となった。鉄道は通じないがバス交通が発達しているので,70年代後半からは熊谷市,旧行田市など周辺地域への通勤者が増えている。観福寺に南河原石塔婆(史)がある。
執筆者:千葉 立也
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※「行田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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