日本大百科全書(ニッポニカ) 「工業化論争」の意味・わかりやすい解説
工業化論争
こうぎょうかろんそう
このことばは一般的には工業化の方針をめぐるさまざまな論争をさしうるが、歴史的には旧ソ連で1920年代に行われた議論をさすのが普通であり、ここでもその論争について説明する。
古典的マルクス主義においては、社会主義は世界革命を前提とし、資本主義の下で高度に発展した生産力を受け継ぐものであると想定されていたが、ロシア革命ののち、期待されたヨーロッパ革命は現実化せず、工業化の遅れていたロシアが、一国で社会主義建設に乗り出さねばならなくなった。これが工業化論争の歴史的前提である。
論争は政治的次元と実務的=専門家的次元との双方にまたがって繰り広げられた。まず政治的次元に関していえば、世界革命論と急速な工業化論を説いたトロツキー派と、一国社会主義論と穏健な工業化論を説いた主流派(スターリン派とブハーリン派)の対立が有名である。しかし、これらの政治的分派は経済政策に関してかならずしも内部的に統一されていたとはいえず、とくに主流派中のスターリン派は1926~27年ごろからしだいに急速な工業化論に傾きつつあった。その結果、一方では主流派内のスターリン派とブハーリン派との間に分岐が生じ(1928)、他方ではトロツキー派の一部がスターリン派に屈服した。
論争のより実務的な側面はいくつかの要素からなるが、そのもっとも重要な点は経済成長の戦略にかかわる。シャーニンは、当面の戦略として農業に重点を置き、農産物輸出によって得られる外貨で工業化のための機械、設備を輸入することを説いたが、これは極右的主張とされ、党指導部では顧みられなかった。ブハーリンを代表とするいわゆる右派は、工業と農業、また工業内での重工業と軽工業の均衡ある発展を唱えた。これに対して、1928~29年以後の党主流派(スターリン派)は、右派の均衡論は工業化のテンポを遅らせようとするものだと批判し、重工業に力点を置いた急速な工業化を主張した。このような重工業・軽工業・農業の相対的比重をめぐる論争は、後の時代の開発途上国における開発戦略をめぐる議論の先駆とみられている。このほか、価格政策、計画作成の方法、投資政策などをめぐっても論争が交わされ、経済政策史上も興味深い論点を提起している。しかし、いわゆるスターリン体制の成立とともに論争は政治的に終結させられ、論争に参加した専門家の多くは「ブルジョア専門家」の烙印(らくいん)を押されて追放された。
[塩川伸明]
『A・ノーヴ著、石井規衛他訳『ソ連経済史』(1982・岩波書店)』