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市川鶴鳴 いちかわかくめい

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百科事典マイペディアの解説

市川鶴鳴【いちかわかくめい】

江戸中期の儒学者,古学派。名は匡,字は子人,通称は多門。上野(こうずけ)の人。徂徠(そらい)派の大内熊耳(ゆうじ)に学び,高崎藩に右筆として仕える。京都遊学などを経てのち高崎藩儒となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

市川鶴鳴 いちかわ-かくめい

1740-1795 江戸時代中期-後期の儒者。
元文5年生まれ。大内熊耳(ゆうじ)にまなぶ。上野(こうずけ)(群馬県)高崎藩につかえ,信濃(しなの)(長野県)飯田,薩摩(さつま)(鹿児島県)などでおしえる。安永9年の著書「末賀能比連(まがのひれ)」で本居宣長(もとおり-のりなが)の古道論を批判,論争をおこした。寛政7年7月8日死去。56歳。名は匡(ただす),匡麻呂(たずまろ)。字(あざな)は子人。通称は多門。

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朝日日本歴史人物事典の解説

市川鶴鳴

没年:寛政7.7.8(1795.8.22)
生年:元文5(1740)
江戸時代中期の漢学者。上州(群馬県)高崎の人。名は匡,匡麻呂,字は子人,通称は多門。鶴鳴と号す。儒学を大内熊耳に学ぶ。代々高崎藩士であったが,両親が亡くなると藩を去り,信濃,尾張,京都,大坂,薩摩と各地を転居。寛政3(1791)年,高崎藩に徴され,世子の侍読となる。寛政異学の禁(1790)に際し,真っ向から反対した五鬼のひとりとして知られる。また,本居宣長の『直毘霊』に対し,『まがのひれ』を著して,その国学思想を批判。この後続く論争の口火を切ったことは,思想史において大きな意義を持つ。<参考文献>小笠原春男『国儒論争の研究』

(高橋昌彦)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

市川鶴鳴
いちかわかくめい
(1740―1795)

江戸中期の儒者。元文(げんぶん)5年高崎藩士市川正芳の子として江戸に生まれる。名は匡(ただす)、通称多門。鶴鳴と号した。荻生徂徠(おぎゅうそらい)門の大内熊耳(おおうちゆうじ)(1697―1776)に学び、(けんえん)派に属す。のち尾張(おわり)、薩摩(さつま)、京坂の地に学を講じて名声を得た。晩年、故郷高崎藩(群馬県高崎市)に招かれ、寛政(かんせい)7年7月8日56歳で没す。墓所は東京都港区虎ノ門の神谷町光明寺。著書に『大学精義』『中庸(ちゅうよう)精義』『帝範国字解』『臣軌(しんき)国字解』などがある。また、市川匡麻呂(たずまろ)の名で著した『末賀能比連(まがのひれ)』は、本居宣長(もとおりのりなが)の古道(こどう)論に対する儒者側からの最初の批判書として名高い。[高橋美由紀]
『鷲尾順敬編『日本思想闘諍史料 第7巻』復刻版(1969・名著刊行会)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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