日本大百科全書(ニッポニカ) 「市川鶴鳴」の意味・わかりやすい解説
市川鶴鳴
いちかわかくめい
(1740―1795)
江戸中期の儒者。元文(げんぶん)5年高崎藩士市川正芳の子として江戸に生まれる。名は匡(ただす)、通称多門。鶴鳴と号した。荻生徂徠(おぎゅうそらい)門の大内熊耳(おおうちゆうじ)(1697―1776)に学び、蘐園(けんえん)派に属す。のち尾張(おわり)、薩摩(さつま)、京坂の地に学を講じて名声を得た。晩年、故郷高崎藩(群馬県高崎市)に招かれ、寛政(かんせい)7年7月8日56歳で没す。墓所は東京都港区虎ノ門の神谷町光明寺。著書に『大学精義』『中庸(ちゅうよう)精義』『帝範国字解』『臣軌(しんき)国字解』などがある。また、市川匡麻呂(たずまろ)の名で著した『末賀能比連(まがのひれ)』は、本居宣長(もとおりのりなが)の古道(こどう)論に対する儒者側からの最初の批判書として名高い。
[高橋美由紀 2016年4月18日]
『鷲尾順敬編『日本思想闘諍史料 第7巻』復刻版(1969・名著刊行会)』