日本大百科全書(ニッポニカ) 「布野修司」の意味・わかりやすい解説
布野修司
ふのしゅうじ
(1949― )
建築史家・評論家。島根県に生まれる。1972年(昭和47)東京大学工学部建築学科卒業。1974年同大学院工学系修士課程修了。同大学助手、東洋大学工学部建築学科講師、同助教授を経て1991年(平成3)に京都大学工学部建築学科助教授となる。1987年工学博士。
1971年に三宅理一(りいち)(1948― )、杉本俊多(としまさ)(1950― )らと「雛芥子(ひなげし)」グループを結成し、都市と演劇に関する批評などを行った後、1970年代なかばから第二次世界大戦後の日本建築に対する検討を始める。戦後の日本建築の特集記事を積極的に展開していた雑誌『建築文化』をおもな発表媒体に、博覧強記でありながら、現状への問題意識に貫かれた論考を精力的に発表。戦後日本の建築と建築ジャーナリズムを広く考察した『戦後建築論ノート』(1981)を著した。これより先、1976年に宮内康(こう)(1937―1992)、堀川勉(1927― )、松山巌(いわお)(1945― )らと「同時代建築研究会」を組織し、戦後に活躍した建築家・評論家を交えたシンポジウムや研究会を開催。活動の成果は『悲喜劇・1930年代の建築と文化』(共著、1981)に結実した。
1970年代末から、それまでほとんど手がつけられていなかった東南アジア建築の研究を始める。学位論文では、文献読解とフィールドワークにもとづいて、インドネシアのカンポン(密集居住地区)の形成と変容のプロセスを精緻に分析、その整備手法を提言した。内容の一部は『カンポンの世界』(1991)として刊行された。
1980年代には日本の住居問題への取り組みを本格化させ、1982年から石山修武(おさむ)(1944― )、大野勝彦(1944―2012)、松村秀一(1957― )らと季刊誌『群居』を発行(2000年廃刊)。創刊から編集長として、住まいを中心に実践的な課題に切り込む誌面づくりを行う。自らも多くの記事を執筆し、『スラムとウサギ小屋』(1985)、『住宅戦争』(1989)などの著作を通して、アジア住居の研究と往還しながら、都市と建築の現状に対する疑念を提示する。
引き続き、日本の近現代建築に対する論考を行う一方で、海外研究の幅をさらに拡大。若手研究者を組織して1995年に「アジア都市建築研究会」を発足させ、アジアの植民都市を中心とした研究を進め、『アジア都市建築史』(2003)などとして成果をまとめる。
認識と実践の連関を目ざし、さまざまな運動体を組織する姿勢は、2001年に設立した京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)にも反映している。同会は京都という都市を観察しそこへ介入することを通じて、街づくりを担う専門家としての「タウンアーキテクト」の現実化を試み、またその構想を布野は著書『裸の建築家』(2000)のなかで示した。
[倉方俊輔]
『『戦後建築論ノート』(1981・相模書房)』▽『『スラムとウサギ小屋』(1985・青弓社)』▽『『住宅戦争――住まいの豊かさとは何か』(1989・彰国社)』▽『『カンポンの世界――ジャワの庶民住居誌』(1991・Parco出版局)』▽『『布野修司建築論集』全3巻(1998・彰国社)』▽『『裸の建築家――タウンアーキテクト論序説』(2000・建築資料研究社)』▽『同時代建築研究会編『悲喜劇・1930年代の建築と文化』(1981・現代企画室)』▽『アジア都市建築研究会著、布野修司編『アジア都市建築史』(2003・昭和堂)』