日本大百科全書(ニッポニカ) 「帝国公道会」の意味・わかりやすい解説
帝国公道会
ていこくこうどうかい
大正期の融和団体。1913年(大正2)10月大江卓(たく)を中心に、政・官・財界の著名人を網羅して首唱者協議会が開かれ、翌年6月の創立総会で、会長に板垣退助(いたがきたいすけ)、副会長に大木遠吉(えんきち)が就任した。機関誌『公道』(のち『社会改善公道』)を発行し皇室中心主義にたち、「解放令」を発布した明治天皇の恩に報いることと、被差別部落大衆が差別への反発から社会主義思想に走るのを防止することとを至上目的におき、そのために部落の改善のみならず社会全体にも同情を求めようとした。多くの著名人の参加は名目のみであったが、大江ら少数の幹部は、部落の視察と講演、部落からの北海道移住の奨励、差別事件の調停などに奔走し、16年からは労働問題にも取り組んだ。18年8月の米騒動に際しては、内務省の意を受けて全国180か所の部落を視察し騒動を抑えようとしたため、部落大衆の不信を買った。19年2月と21年2月の二度、著名人を集めて同情融和大会を開き勢力の挽回(ばんかい)を計るが成らず、21年9月に大江が死去してからは衰退に向かった。とくに、同年の同愛会の結成に象徴される自主的融和運動の台頭や、翌年の全国水平社の結成などにより存在意義を失い、27年(昭和2)7月中央融和事業協会に合併吸収された。
[藤野 豊]
『『公道』復刻版・全四巻(1981~84・西播地域皮多村文書研究会)』