ルイス(読み)るいす(英語表記)Dio Lewis

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルイス」の意味・わかりやすい解説

ルイス
Lewis, John L.

[生]1880.2.12. アイオワ,ルーカス近郊
[没]1969.6.11. ワシントンD.C.
ジョン・L.ルイス。アメリカ合衆国の労働運動指導者。フルネーム John Llewellyn Lewis。1920~60年アメリカ鉱山労働者組合 UMWA総裁,1936~40年産業別組合会議 CIO初代総裁を務めた。イギリスのウェールズからの移民鉱山労働者の長男として生まれ,7年生で学校を離れ,15歳で鉱山で働くようになった。イリノイ州パナマの炭鉱で UMWA支部長となり,1911年には UMWAが加盟していたアメリカ労働総同盟 AFL(→アメリカ労働総同盟産業別組合会議)のまとめ役となった。1917年 UMWAの副総裁,1919年に総裁代理,1920年には当時アメリカ最大の労働組合に発展していた UMWAの総裁に上りつめた。フランクリン・D.ルーズベルト大統領がニューディールを推し進めるなかでの 1933年全国産業復興法 NIRAの制定は労働者に団体交渉権を認め,これを機に UMWAは勢力を拡大,アパラチア炭田の労働者を巻き込んで数年以内に組合員を 3倍に増やした。1935年のワグナー法(全国労働関係法)の制定をうけ,自動車や電気製品など大量生産産業の労働者の組織化をはかって産業組織委員会 Committee for Industrial Organizationを結成したものの,拡大路線をめぐって AFLの指導部と対立,7人の組合幹部とともに脱退し,1936年新たに CIOを結成して総裁に就任した。その後,活動を過激化させ,1936年にゼネラル・モーターズに対して行なった座り込みによるストライキでは,多くの未熟練労働者たちに「一職場一組合」one shop, one unionが有効であることを確信させた。ルイスは共和党支持者であったが,1932年と1936年の大統領選挙では民主党のルーズベルトを支持した。しかしルーズベルトの 3選には反対し,当選するとCIO総裁を辞任,1942年には戦争支持の CIOから UMWAを脱退させた。また,1940年代にルイスが指導した鉱山労働者のストライキは大衆の不評を買い,1943年のスミス=コナリー反ストライキ法(戦争労働争議法)や 1947年のタフト=ハートレー法といった労働組合の権限を制限する法制定に結びついた。1950年代,ルイスは鉱山労働の機械化に取り組み,これが生産性拡大や組合の利益につながった。UMWA総裁退任後は UMWAの福利厚生・退職金基金の理事長を務めた。張り出した眉毛とブルドッグ様の頬といった独特の風貌から放たれるルイスの弁舌には文学的な引用がちりばめられ,ときには辛辣な批判も含まれていた。

ルイス
Louis, Joe

[生]1914.5.13. アラバマ,ラフェーエット
[没]1981.4.12. ネバダ,ラスベガス
ジョー・ルイス。アメリカ合衆国のプロボクサー。本名 Joseph Louis Barrow。正確かつ効率的なパンチで「ブラウン・ボンバー」の異名をとり,1937年6月22日にシカゴでジェームズ・ブラドックを第8ラウンド,ノックアウト KOで倒して以来,1949年3月1日に引退するまで世界ヘビー級王者として活躍した。長い王座在位期間中,25度連続タイトル防衛(うち 21度 KO勝ち)に成功,全階級を通じて最多防衛記録保持者となった。綿摘み小作人の子として生まれ,12歳でデトロイトに移住,その後ボクシングを始める。アマチュア選手として 50勝4敗と活躍し,1934年ゴールデングローブ賞を獲得。同年プロに転向,7月4日に初戦を迎え,それから 1年以内に世界ヘビー級王者のプリモ・カルネラを負かした。1936年ドイツのプロボクサー,マックス・シュメリングに KO負けを喫する。2年後の 1938年の同一カードでは,マスメディアが,アメリカの民主主義対ドイツのナチズムとの闘い(シュメリング自身はナチスではない)ともてはやすなか,第1ラウンド KO勝ちで雪辱を果たし,スポーツマンらしいふるまいや謙虚な性格,物腰の柔らかさが愛され,ルイスは一躍国民的英雄となった。1939~42年に全盛期を迎え,1940年12月から1941年6月までの間には 7度の王座防衛に成功した。1942年アメリカ陸軍に入隊,のちに大リーガーとして活躍するジャッキー・ロビンソンとともに黒人部隊に配属され,実際の戦闘には臨まなかったものの,のべ 200万の兵士の前で 96回ものエキシビションマッチを戦い,陸海軍救済基金に 10万ドル以上寄付した。第2次世界大戦後はめぼしい活躍はなく,無敗の王者のまま 1949年に現役引退した。その後,借金返済のため 1950年9月27日に復活戦に挑んだが,王者エザード・チャールズに判定負けし,翌 1951年10月26日のロッキー・マルシアノとのプロ生活最後の試合も第8ラウンド KO負けとなった。プロ通算成績は 71戦68勝(54KO)3敗。引退後も借金に悩まされ,プロレスラーやラスベガスのリゾートホテルの接客係を務めた。死後,アーリントン国立墓地に埋葬され,葬儀にはシュメリングも参列した。1982年連邦議会ゴールドメダル。1990年に国際ボクシング殿堂入り。また,デトロイトでは地元の NHLのアイスホッケーチーム,デトロイト・レッドウィングズの本拠地(1979~2017)がジョー・ルイス・アリーナと名づけられ,1986年にはダウンタウンにルイスの握りこぶしの右腕をかたどった記念碑が設置された。

ルイス
Lewis, C. S.

[生]1898.11.29. アイルランド,ベルファスト
[没]1963.11.22. イギリス,オックスフォードシャー,オックスフォード
C.S.ルイス。アイルランド生まれのイギリスの文学研究者,作家。フルネーム Clive Staples Lewis。約 40冊の本を著し,多くは『悪魔の手紙』The Screwtape Letters(1942)や『単なるキリスト教』Mere Christianity(1952)といったキリスト教の神学書であるが,最も有名なものはファンタジーの古典ともなった児童書シリーズの『ナルニア国物語』Chronicles of Narnia(7巻,1950~56)である。ルイスはアイルランド(現在のイギリス領北アイルランド)のベルファストの教育熱心な家庭で育ち,幼い頃から読書に親しんだ。第1次世界大戦で一時フランスに従軍したのち,オックスフォード大学に入学して優れた成績を収め,1925~54年同大学マグダレン・カレッジの特別研究員兼准講師を務める。その後,1954~63年ケンブリッジ大学の教授として中世・ルネサンス英文学講座を受け持つ。20代まで無神論者として過ごしていたが,親友 J.R.R.トールキンの勧めもあり,1931年にキリスト教を信仰し始めた。小説の最初の成功作は『沈黙の惑星を離れて』Out of the Silent Planet(1938)で,『ペレランドラ――金星への旅』Perelandra(1943),『サルカンドラ――かの忌わしき砦』That Hideous Strength(1945)とともに三部作を構成した。論文や書評でも名が知られるようになり,『愛の寓意』The Allegory of Love(1936)は中世文学における宮廷風恋愛を論じ,ルイスがイギリス文学研究の第一人者としての地位を確立することになった名著である。このほか,『失楽園序説』A Preface to Paradise Lost(1942),『ことばの研究』Studies of Words(1960)などがある。なお,『ナルニア国物語』は 1950年に出版された『ライオンと魔女,衣装だんす』The Lion, the Witch, and the Wardrobeに,さらに 6話を追加し,シリーズ化したものである。ルイスの最後のフィクション作品で最高傑作と評されているのが『顔をもつまで―再び語られる神話』Till We Have Faces: A Myth Retold(1956)である。この作品はキューピッド(クピド,エロス)とプシュケの物語をプシュケの姉オリュアルの視点から描いたものである。

ルイス
Lewes, George Henry

[生]1817.4.18. ロンドン
[没]1878.11.28. ロンドン
ジョージ・ヘンリー・ルイス。イギリスの伝記作家,文芸評論家,劇作家,小説家,哲学者,俳優,科学者,編集者。ジョージ・エリオットこと,メアリー・アン・エバンズとの数十年にわたる交際でも知られる。さまざまな教育を受けたのち,ドイツで 2年間を過ごし,1840年ロンドンに戻った。その後の 10年間はさまざまな雑誌向けに頻繁に執筆し,また 1840年代前半にはジョン・スチュアート・ミルとの文通を通じて,社会学の創始者とされるオーギュスト・コント実証主義哲学を知るようになった。1850年友人のソーントン・リー・ハントとともに急進的な週刊誌『リーダー』The Leaderを創刊,文学や演劇の特集記事を執筆した。著書『コントの科学哲学』Comte's Philosophy of the Sciences(1853)は,もともとこの雑誌に連載されていたものである。私生活においては 1841年に結婚し,ハント夫妻と他の 2組の夫婦と共同生活を送った。当初はうまくいっていたが,ルイスの妻がハントの子供 2人を産んだことから,2人目が誕生した 1851年に妻と疎遠になった。同年,エバンズと知り合ったものの,ルイスが妻の不貞を一度容認していたことを理由に法的に離婚が成立しないまま,1854年以降,二人はルイスの死まで幸せに暮らした。ルイスは1847年出版の教養小説『ランソープ』Ranthorpeで若い作家のモラルと知的成長を描き,1855年には今日でも詩人の価値ある入門書といわれる『ゲーテの生涯と作品』Life and Works of Goetheというタイトルの二巻本を発表した。科学者としては,運動神経や感覚に関する多数の論文のほかに,『海辺の研究』Seaside Studies(1858),『日常生活の生理学』Physiology of Common Life(2巻,1859~60),『動物生活の研究』Studies in Animal Life(1862)を出版した。さらに,アリストテレスの研究(1864),最も野心的な仕事といえる『生命と精神の諸問題』Problems of Life and Mind(5巻,1873~79)も発行した。このほか 1865~66年に『隔週批評』Fortnightly Reviewを編集,科学,政治、文芸批評についての論文を寄稿した。多才な作家であり,さまざまな分野に精通した思想家であったルースは,経験的形而上学の発展に大きく寄与し,精神現象を社会的・歴史的条件と関連づけて扱ったことは心理学の大きな進歩に結びついた。

ルイス
Lewis, Gilbert N.

[生]1875.10.23. マサチューセッツ,ウェーマス
[没]1946.3.23. カリフォルニア,バークリー
ギルバート・N.ルイス。アメリカ合衆国の物理化学者。フルネーム Gilbert Newton Lewis。化学熱力学においてフガシティ fugacity(逃散能,逸散能)の概念,および活量係数 activity coefficient tivityを用いた関数表示を導入し,化学結合の分野においては原子価電子の共有による共有結合および八隅説を提唱した。ネブラスカ州リンカーンで育ち,13歳でネブラスカ大学の予備学校に入学,同大学では 2年生まで学び,1893年ハーバード大学に編入し,1896年化学の学士号を取得。マサチューセッツ州アンドーバーのフィリップス・アカデミーで 1年間教鞭をとったのちハーバード大学に戻り,1898年修士号を取得。さらに翌年,セオドア・リチャーズの指導のもと,亜鉛とカドミウムアマルガムの電気化学に関する論文で博士号を得た。ハーバードで 1年間講師を務めたのち,ドイツに留学,ライプチヒ大学のウィルヘルム・オストワルトゲッティンゲン大学のワルター・ネルンストのもとで学ぶ。ハーバード大学講師,フィリピン駐在の度量衡監督官を経て,1905年マサチューセッツ工科大学 MIT教授。1912年にはカリフォルニア大学バークリー校の学部長に就任,34年間の在職中,同大学の化学部を全米最高レベルに育て上げた。ルイスの研究はこのほか,重水の精製(→重水素),酸と塩基の電子理論(→ルイス酸ルイス塩基),ケイ光,リン光の三重項状態などに広範囲に及んだ。また,理論物理学の分野にも関心や洞察は広がり,はかり知れない影響を与えたが,彼のキャリアにおいて最大の謎はノーベル賞を受賞していないこととされた。著書に『原子価と原子および分子の構造』Valence and the Structure of Atoms and Molecules(1923),『科学の解剖学』The Anatomy of Science(1926)などがある。

ルイス
Lewis, Sinclair

[生]1885.2.7. アメリカ合衆国,ミネソタ,ソークセンター
[没]1951.1.10. イタリア,ローマ近郊
シンクレア・ルイス。アメリカ合衆国の小説家,社会評論家。フルネーム Harry Sinclair Lewis。広い視野と風刺でアメリカ人の自己満足に切り込んだ人気作家であり,1930年アメリカ人として初めてノーベル文学賞(→ノーベル賞)を受賞した。1907年エール大学卒業後,新聞社や出版社に勤めながら少年向け読み物を書き,1914年に最初の小説『弊社社員レン氏』Our Mr. Wrennを発表,好意的な評価を得たが,読者は少なかった。その後,『サタデー・イブニング・ポスト』や『コスモポリタン』に雑誌小説を書いて成功したが,本格的な作家になる夢をあきらめず,1920年に出版された『メイン・ストリート』Main Street(邦題『本町通り』)で文学的名声を高めた。この小説は,ルイスの故郷ソークセンターをモデルに,中西部ミネソタ州ゴーファープレーリーという町の医師に嫁いだ東部出身の娘キャロル・ケニコットの目を通して,町のことばや習慣,社会生活を描いたものである。アメリカの典型的な田舎町に暮らす人々と,彼らを軽蔑する薄っぺらな知性重視主義――双方への風刺を表した本作は一小説にとどまらず,アメリカ地方主義を知るための教科書となった。1922年には『バビット』Babbittで,ロータリークラブや仕事上の理想などにより個性が吸い取られていくビジネスマンを,1925年には『アロースミス』Arrowsmith(ピュリッツァー賞を辞退)で商業主義と戦う科学者をそれぞれ描いた。さらに 1927年には貪欲で好色な牧師がメソジスト派の指導者となる姿を描いて問題となった『エルマー・ガントリー』Elmer Gantry,1929年にはヨーロッパ旅行で伝統と芸術に目ざめる工場主とその妻を扱った『ドッズワース』Dodsworthの力作を相次いで発表した。1930年代以降も,女性社会運動家を主人公とする『アン・ビッカーズ』Ann Vickers(1933),ファシズムの脅威を扱い 1936年に上演された『ここには起こりえぬ』It Can't Happen Here(1935),人種問題を取り上げた『キングズブラッド家の血統』Kingsblood Royal(1947),最後の長編『かくも広き世界』World So Wide(1951)など多くの作品を世に送ったが,1920年代までの評価は得られなかった。晩年は海外で過ごすことが多くなり,また 2度目の結婚にも失敗し,酒量も増えていった。

ルイス
Lewis, Wyndham

[生]1882.11.18. カナダ,ノバスコシア,アマースト近郊
[没]1957.3.7. イギリス,ロンドン
ウィンダム・ルイス。イギリスの画家,小説家,批評家。フルネーム Percy Wyndham Lewis。芸術と文学と産業プロセスの関連性を追求した渦巻派ボーティシズム)を創設した。カナダのアマースト近郊のヨットの中で生まれ,1893年頃母親とともにイギリスに渡った。奨学金を得て 16歳でロンドンのスレード美術学校に入学したが,3年後に退学,パリに赴き,絵を学んだり,ソルボンヌで講義を受けるなどした。パリ滞在中にキュビスム表現主義に興味をいだいた。1908年にイギリスに戻り,二つの潮流の側面を取り入れた絵画を手がけ,また風刺的な物語を執筆した。1913年までに抽象的かつ幾何学的な形態と,機械文明や都市建築を引き合いに出す絵画表現を確立した。このスタイルは渦巻の中心にある静止点から現代社会のエネルギーを観察するというルイスの信念に基づき,渦巻派と名づけられた。1914年詩人エズラ・パウンド,彫刻家アンリ・ゴーディエ=ブルゼスカらと前衛的芸術誌『ブラスト』Blastを刊行(~1915),本誌に掲載されたルイスのデザインにはイマジズムの詩の影響がみられた。1915年最初の小説『ター』Tarrを発表し,えせ芸術家を痛罵して以来,現代大衆社会の低劣な美術,文学,政治に対して執拗な攻撃を加えた。1920~30年代には評論『時間と西欧人』Time and Western Man(1927),小説『神の模倣者』The Apes of God(1930),評論『芸術なき人々』Men Without Art(1934)を発表するなど,美術作品のみならず執筆作品にも注目が集まった。しかし,自身の生涯最高傑作を世に送りながら,ファシズムへの傾倒や名誉毀損訴訟などによって出版社から敬遠されるようになり,経済的に困窮し始めた。1939年には妻とともにアメリカ合衆国に渡って講演や肖像画の制作を行なうようになった。第2次世界大戦後はイギリス放送協会 BBCが発行する雑誌『リスナー』The Listenerに 視力を失う 1951年まで美術評論を書き,のちに有名になるマイケル・エアトンやフランシス・ベーコンなどの若い芸術家を紹介した。

ルイス
Lewis, John

[生]1940.2.21. アラバマ,トロイ近郊
[没]2020.7.17. ジョージア,アトランタ
ジョン・ルイス。アメリカ合衆国の政治家,公民権運動活動家。学生非暴力調整委員会 SNCCの委員長を務め,アフリカ系アメリカ人の選挙権を求めて 1965年にアラバマ州セルマで行なわれた平和的行進(→セルマ大行進)を主導したことで知られる。アラバマ州の小作人の息子として生まれ,10代の頃,マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(キング牧師)やローザ・パークスらの人種差別反対運動に触発される。ナッシュビルのアメリカン・バプティスト神学校とフィスク大学で学び,その間の 1963~66年に SNCCの委員長を務め,20代前半であったにもかかわらず,キング牧師,ジェームズ・ファーマー,A.フィリップ・ランドルフ,ロイ・ウィルキンズ,ホイットニー・ヤングとともに公民権運動を率いる「ビッグ・シックス」と呼ばれた。1961年に南部の州間バスの車両内で黒人と白人が同席する示威行動,フリーダム・ライドに参加,1963年には歴史的なワシントン大行進の立役者となった。1965年3月7日,セルマで 600人以上による平和的な行進を組織したが,途中,アラバマ川の橋を渡った際に待ち構えていた警察から容赦ない暴力を受けた。「血の日曜日」として知られるようになった事件の様子はテレビで放映され,公民権運動に決定的な影響を与え,1965年8月6日にリンドン・B.ジョンソン大統領が署名した画期的な投票権法の成立に大きく寄与した。1971年にアトランタ市議会議員に選出。1986年ジョージア州選出の連邦議会下院議員(民主党)に当選し,17期連続で務めた。1975年マーティン・ルーサー・キング・ジュニア非暴力平和賞,2001年ジョン・F.ケネディ勇気賞受賞。2010年大統領自由勲章受章。回顧録に"Walking with the Wind"(1998。マイケル・ドルソ共著)のほか,「マーチ」March三部作(2013,2015,2016。アンドリュー・アイディン共著)があり,最終作は全米図書賞に輝いた。「議会の良心」といわれ,アフリカ系アメリカ人として初めて首都ワシントンDCの連邦議会議事堂に遺体が安置された。

ルイス
Lewis, Meriwether

[生]1774.8.18. バージニア,シャーロッツビル近郊
[没]1809.10.11. テネシー,ナッシュビル近郊
メリウェザー・ルイス。アメリカ合衆国の探検家。ウィリアム・クラークとともにルイス・アンド・クラーク探検隊 Lewis and Clark Expeditionを率い,1804~06年に未開のアメリカ内陸部から北西の太平洋岸を横断した。バージニア州のトーマス・ジェファーソンの自宅近くの一家の農園ローカストヒルで育つ。アメリカ独立戦争で父が戦死したのち,母の再婚先のジョージア州に移ったが,1792年以降バージニア州に戻り,叔父のもとでローカストヒルの経営に着手した。1794年ペンシルバニア州で発生したウイスキー反乱を鎮圧するために民兵として従軍。翌 1795年に正規軍に入り,1799年に中尉,1800年に大尉に昇進した。1801年にはジェファーソン大統領の私設秘書兼武官となり,1803年にアメリカが新たに購入したフランス領ルイジアナ(→ルイジアナ購入)の探検隊の隊長に命じられ,1804~06年親友のクラークと組織したルイス・アンド・クラーク探検隊を率い,オハイオ川を下ってミズーリ川をさかのぼり,大陸分水界を越えて太平洋に到達し帰還,移動距離は約 28ヵ月間で 1万3000kmに及んだ。探検隊は「発見隊」Corps of Discoveryとも呼ばれ,ルイスはその間,地域の植物学,動物学,気象学,地理学,民族学に関する知見を記録し,さまざまな標本を収集した。また,クラークとともに西部の河川システムや毛皮資源を調査し,アメリカインディアンの指導者と会って貿易や和平交渉を行なった。帰還後の 1807年にアッパー・ルイジアナ准州の知事に任命されたが,土地や鉱山をめぐる紛争への対応や公費の使いみちをめぐって責任を問われ,説明のためワシントンD.C.に出向く途中の 1809年10月11日,ナッシュビルから約 110kmにある現在のホーヘンウォルドの宿泊先で射殺体で発見された。死をめぐっては,自殺説や陰謀説,あるいは偶発的な事件とする説もある。

ルイス
Lewis, Jerry

[生]1926.3.16. ニュージャージー,ニューアーク
[没]2017.8.20. ネバダ,ラスベガス
ジェリー・ルイス。アメリカ合衆国のコメディアン,映画俳優,映画監督。本名 Joseph Levitch。なりふりかまわぬ自由なスタイルで 1950年代から 1960年代に絶大な人気を博したコメディ俳優の一人。ボードビルをなりわいとする一家に生まれ,芸能活動のため高等学校を中退した。1946年にディーン・マーティンとコンビを結成。マーティンが歌をうたい,ルイスが道化役を演じて各地のナイトクラブで爆発的な人気を獲得し,パラマウント映画と契約,映画界に入る。第一作となる映画 "My Friend Irma"(1949)で一躍人気スターとなった。その後,『底抜け右向け!左』At War with the Army(1950),『底抜けびっくり仰天』Scared Stiff(1953)などに出演,テレビでも活躍した。1956年にコンビを解消。監督としても才能を開花させ,初の監督・脚本作は『底抜けてんやわんや』The Bellboy(1960)。1963年の監督・脚本・主演作『底抜け大学教授』The Nutty Professorが代表作。マーティン・スコセッシ監督の『キング・オブ・コメディ』The King of Comedy(1983)などにも出演した。慈善活動家としても有名で,難病の筋ジストロフィー(→進行性筋萎縮症)患者を支援するチャリティ番組の司会を 1966年から 2010年まで務めた。2006年レジオン・ドヌール勲章コマンドゥールを受章。1999年ベネチア国際映画祭の金獅子賞,2009年アメリカ映画芸術科学アカデミーからアカデミー賞特別賞であるジーン・ハーショルト友愛賞を受賞した。

ルイス
Lewis, Carl

[生]1961.7.1. アラバマ,バーミングハム
カール・ルイス。アメリカ合衆国の陸上競技選手。フルネーム Frederick Carlton Lewis。1980年代から 1990年代にかけてのオリンピック競技大会 4大会で通算 9個の金メダルを獲得した。1980年アメリカ代表チーム入りをしたが,アメリカがモスクワ・オリンピック競技大会への参加をボイコットしたため出場はならなかった。1984年のロサンゼルス・オリンピック競技大会で,100m,200m,走り幅跳び,400mリレーの 4種目に優勝,一躍スーパースターとなった。1988年ソウル・オリンピック競技大会では,100mで 1位でゴールしたベン・ジョンソン(カナダ)が 3日後にドーピング(禁止薬物使用)で失格となり,繰り上げ優勝。さらに,走り幅跳びで 2連覇,200mで銀メダルに輝いた。1992年バルセロナ・オリンピック競技大会では走り幅跳びと 400mリレーで 2冠。35歳で迎えた 1996年アトランタ・オリンピック競技大会では走り幅跳びで 4連覇を達成,個人種目での 4連覇は史上 3人目の快挙となった。翌 1997年に競技生活から引退。引退後は数多くの映画やテレビシリーズに出演,しばしば自身を演じたりもした。慈善活動にも積極的に取り組み,2001年フィットネスの普及を目的にカール・ルイス財団を設立。1999年国際オリンピック委員会 IOCの各国オリンピック委員会の投票による「20世紀を代表する選手」に,サッカーのペレ,ボクシングのモハメド・アリに続いて第3位に選ばれた。

ルイス
Lewis, Sir Arthur

[生]1915.1.23. イギリス領西インド諸島,セントルシア,カストリーズ
[没]1991.6.15. バルバドス,ブリッジタウン
アーサー・ルイス。セントルシアの経済学者。フルネーム Sir William Arthur Lewis。経済発展の研究および農業における労働生産性と先進国―途上国間の貿易条件を関連づけた革新的なモデルを提唱し,1979年にセオドア・ウィリアム・シュルツとともにノーベル経済学賞(→ノーベル賞)を受賞した。奨学金を得て,イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通い,1937年卒業,1940年経済学の博士号を取得。1938~47年同校講師,1947~58年マンチェスター大学教授,1959~62年西インド諸島ユニバーシティ・カレッジ学長,1963~83年アメリカ合衆国のプリンストン大学教授。数多くの国際委員会やアフリカ,アジア,カリブ海諸国政府の経済開発顧問として活動し,1970~73年にはカリブ開発銀行 CDBの総裁を務めた。1963年ナイト(爵)に叙される。著書に『経済計画の原理』The Principles of Economic Planning(1949),『経済成長の理論』The Theory of Economic Growth(1955),『開発計画』Development Planning(1966),『熱帯開発 1880-1913』Tropical Development 1880–1913(1971),『成長と変動 1870-1913』Growth and Fluctuations 1870–1913(1978)などがある。

ルイス
Lewis, Matthew Gregory

[生]1775.7.9. イギリス,ロンドン
[没]1818.5.14.
マシュー・グレゴリー・ルイス(通称モンク・ルイス)。イギリスの小説家,劇作家。ゴシック小説『修道僧』The Monk(1796)でセンセーショナルな成功を収め,モンク・ルイス Monk Lewisと通称されるようになった。ウェストミンスター・スクールとオックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジに学び,ハーグ駐在の大使館員を経て,1796~1802年下院議員。1812年ジャマイカで莫大な財産を相続したが,自身が管理する奴隷 500人の状況に真摯に関心をもち,西インド諸島を 2度巡った。しかし,2度目の旅行の帰途,黄熱病にかかり洋上で死亡した。『修道僧』はルイスが 19歳のときに書かれ,アン・ラドクリフやより濃厚なドイツのゴシック文学の影響を受けている。ロマンスよりもホラーを,また暴力やエロチシズムを強調したこの作品は一部で非難されたが,熱心な読者を獲得した。続く音楽劇『城の妖怪』The Castle Spectre(上演 1797,出版 1798)もリチャード・ブリンズリー・シェリダンのプロデュースにより成功した。またもう一つの重要な作品として,死後出版され,ルイスの人道的かつリベラルな性格を物語る『西インド経営者の日記』Journal of a West Indian Proprietor(1834)がある。

ルイス
Lewis, John

[生]1920.5.3. イリノイ,ラグレーンジ
[没]2001.3.29. ニューヨーク,ニューヨーク
ジョン・ルイス。アメリカ合衆国の作曲家,ジャズピアニスト。フルネーム John Aaron Lewis。40年以上にわたり,モダン・ジャズ・カルテット MJQのリーダーとしてエレガントで魅力的なジャズの普及に貢献した。ニューメキシコ州アルバカーキで育ち,子供の頃からピアノを習った。ニューメキシコ大学を卒業後,1953年マンハッタン音楽院で修士号を取得した。第2次世界大戦中,軍務につき,その後ディジー・ガレスピー楽団にピアニストとして参加し,編曲者としても活躍した。1952年ビブラフォーンのミルト・ジャクソン,ベースのパーシー・ヒース,ドラムスのケニー・クラーク(1955年にコニー・ケイと交代)と MJQを結成,『ジャンゴ』『コンコルド』など数々の名盤を世に送り出した。1974年解散したが 1981年に再結成,1990年代後半に最後のコンサートを行なった。バップとヨハン・ゼバスチアン・バッハに影響を受け,クラシック音楽の技法をジャズに導入したことで知られた。1958~82年モントレー・ジャズ・フェスティバル,1985~92年アメリカン・ジャズ・オーケストラの音楽監督を歴任した。

ルイス
Ruiz, Juan

[生]1283頃. アルカラ
[没]1350頃
フアン・ルイス。スペインの詩人,聖職者。イタの主席司祭。代表作『よき愛の書』El libro de buen amor(1330。1343増補)は中世スペインにおける最も重要な長編詩といわれる。ルイスの生涯については『よき愛の書』に記述されていること以外は不明であり,トレドで教育を受け,アルカラ近郊の村イタで司祭を務めながら,1330年までに同書を書き終えたとみられる。また歌も作曲し,名声を得ていたとみられる。『よき愛の書』はクアデルナ・ビーア cuaderna víaと呼ばれる 1行14音節同音韻四行詩でおもに構成されるが,さまざまな韻律の詩もちりばめられている。収録されている 12の物語詩にはきわめて多様な情事のみならず,当時の風俗全般にわたる写実的な描写が記されている。また,スペイン文学における最初の喜劇的人物が老女トロタコンベントス Trotaconventosとして登場している。聖書,キリスト教の教典,オウィディウスらの古代の詩,中世の酒好きな風刺詩人の集団ゴリアードの詩,フランスのファブリオー,アラビア語の著作,世俗曲など広範囲の文学的題材から取材したこの作品は,16~17世紀の悪者小説において頂点をなす写実主義文学の隆盛につながった。

ルイス
Lewis, Edward B.

[生]1918.5.20. ペンシルバニア,ウィルクスバレ
[没]2004.7.21. カリフォルニア,パサディナ
エドワード・B.ルイス。アメリカ合衆国の発生遺伝学者。初期胚発生を制御する機能の発見により,1995年エリック・F.ウィシャウス,クリスティアーネ・ニュスライン=フォルハルトとともにノーベル生理学・医学賞を受賞した。高校生のときに遺伝学に興味をもち,1939年ミネソタ大学卒業後,1942年カリフォルニア工科大学で博士号を取得。1946年~88年同大学で教鞭をとった。ルイスはウィシャウスやニュスライン=フォルハルトとは個別に,ショウジョウバエの胚の発生実験を行ない,数千匹のハエを交配することで,個々の体節の発生を制御する遺伝子群と,その染色体上の位置を特定した。染色体上にはホメオボックスという特徴的な配列をもつ遺伝子が順番に並んでおり,それぞれ頭部・胸部・尾部の体節を制御していることがわかった。さらにその遺伝子の変異がハエの奇形を起こすことをつきとめた。ルイスの研究はヒトの先天異常など,生物学的発達の一般的なメカニズムを説明するのに役立った。の研究にも寄与した。1968年全米科学アカデミー会員。1990年ナショナル・メダル・オブ・サイエンスを受章。

ルイス
Lewis, Francis

[生]1713.3.21. イギリス,ウェールズ,ランダフ
[没]1803.12.30. アメリカ合衆国,ニューヨーク,ニューヨーク
フランシス・ルイス。アメリカ独立革命期の政治家,商人。アメリカ独立宣言署名者の一人。1738年ウェールズからアメリカ大陸に渡り,ニューヨークで商人として成功を収める。本国イギリス政府の御用商人として働き,ロシアやアフリカを巡ったのち,フレンチ・アンド・インディアン戦争でイギリス軍のためにオスウィーゴの砦の防衛にあたる。インディアン側の捕虜となったが,解放後,戦功を認められイギリス政府より広大な土地を与えられたが,イギリスがアメリカに対して印紙税法を適用すると本国への反感を強め,独立革命のために働き始めた。1775~79年大陸会議のニューヨーク代表を務め,アメリカ軍のために物資を調達した(→アメリカ独立戦争)。息子のモーガン・ルイスも,1777年のサラトガの戦いでホレーショ・ゲーツ将軍の参謀長を務めた。

ルイス
Lewis, C. I.

[生]1883.4.12. マサチューセッツ,ストーンハム
[没]1964.2.3. マサチューセッツ,ケンブリッジ
C.I.ルイス。アメリカ合衆国の論理学者,認識論者,道徳哲学者。フルネーム Clarence Irving Lewis。記号論理学で,A⊃B(AならばB)の単なる真偽関係だけではなく,その内容的,必然的関係にも注目すべきであるとして「厳密含意」strict implicationの概念を提出した。ハーバード大学で学び,1920年から 1953年まで同大学で教鞭をとり,教授には 1930年に就任した。1950年コロンビア大学より形式論理学者として栄誉を受け,1961年にはアメリカ学術団体評議会 ACLSから人文学上の功績が認められ,賞金 1万ドルを授与された。クーパー・ハロルド・ラングフォードとの共著『記号論理学』Symbolic Logic(1932)は様相論理学の古典となり,現代の諸研究の出発点となった。このほか,『知識と評価の分析』An Analysis of Knowledge and Valuation(1947),『権利の根拠と性質』The Ground and Nature of the Right(1955)を著した。

ルイス
Lewis, Isaac Newton

[生]1858.10.12. ペンシルバニア,ニューセーレム
[没]1931.11.9. ニュージャージー,ホーボーケン
アイザック・ニュートン・ルイス。アメリカ合衆国の陸軍軍人,技術者。第1次世界大戦などで広く使用されたルイス式機関銃の発明で知られる。1884年ニューヨーク州のウェストポイント陸軍士官学校を卒業。1891年には大砲の測距装置を発明し初めて特許を取得,その後も続く速射砲やガス推進式魚雷など,一連の武器の発明の最初のものとなった。また,自動車の電気式前照灯(ヘッドライト)など非軍事用途の発明も行なった。1911年にルイス式機関銃で特許を得たものの,当初アメリカ陸軍には採用されなかった。1913年に退役してヨーロッパに渡り,ベルギーのリエージュで武器工場を建設,機関銃の製造を開始した。第1世界大戦勃発後,工場をイギリスに移し,小銃メーカーのバーミンガム・スモール・アームズと合併した。約 10万丁のルイス式機関銃が連合国軍に使用され,特に改良型は反動が少ないことから戦闘機において重宝された。

ルイス
Louis, Morris

[生]1912.11.24. メリーランド,ボルティモア
[没]1962.9.7. ワシントンD.C.
モリス・ルイス。アメリカ合衆国の画家。原名 Morris Bernstein。抽象表現主義におけるニューヨーク派の一人で,鮮やかな縞模様を用いた独特な色使いの作品を特徴とした。1929~33年ボルティモアのメリーランド美術工芸研究所で学ぶ。1937~40年ニューディールによる雇用対策局 WPAのフェデラル・アート・プログラムで画家を務める。初期の作品はキュビスムの影響を受けていたが,1952年にジャクソン・.ポロックの抽象主義表現に接して以降,作風が激変した。1953年には,無処理のカンバスに絵具を流し込むヘレン・フランケンサーラーの手法に感銘を受け,縦波のように色の帯を描いた『アイリス』Iris(1954)などを制作した。1961年以降はカンバスの下隅に複数の色の帯を流れるように斜めに描き,最晩年にはその帯が垂直な縦の線に変化した。(→ポスト・ペインタリー・アブストラクション

ルイス
Lewis, Alun

[生]1915.7.1. イギリス,グラモーガンシャー,アバーデア
[没]1944.3.5. ビルマ,アラカン
アラン・ルイス。イギリスの詩人。将来有望なウェールズの詩人であったが,第2次世界大戦で戦地ビルマ(現在のミャンマー)に赴き,早逝した。教師を父にもち,南ウェールズの炭鉱町で暮らすなか,貧しい炭鉱労働者への共感や絆をはぐくんだ。奨学金を得て,ウェールズのアベリストゥウィス大学とマンチェスター大学で学び,教師を務めていたが,戦争が始まりまもなく陸軍に入隊した。詩集『侵入者の夜明け』Raiders' Dawn(1942)に収録された詩のほとんどは,同年発表された短編集『最後の審問』The Last Inspectionと同様,イギリス国内の訓練所における軍隊生活の様子が描かれている。詩集『聞け! ラッパだ』Ha! Ha! Among the Trumpets(1945)はイギリスを離れ,アジアで軍務につく際に書かれたものである。そのほか,『インドからの手紙』Letters from India(1946),『アラン・ルイス選集』Selected Poetry and Prose(1966)も出版されている。シドニー・キーズとともに大戦で戦死した青年詩人の双璧をなす。

ルイス
Lewes

イギリスイングランド南東部,イーストサセックス県の県都。周辺を含めてルイス地区を構成する。ブライトンの東北東約 15km,サウスダウンズ丘陵を切って南流するウーズ川に臨む。ウーズ川の谷は古くから重要な交通路をなし,周辺一帯では先史時代からアングロ・サクソン時代にいたる遺物や遺跡が数多く発見されており,町の古い起源を示している。11世紀にはすでに商業の中心地として,また河港として栄え,1264年のルイスの戦い(→バロン戦争)後,町は城壁で囲まれた。行政,教育の中心地であるほか,観光業が盛ん。各種軽工業も行なわれる。近郊には世界的に有名なオペラハウス,グラインドボーンがある。地区面積 292km2。地区人口 9万2187(2001)。都市人口 1万5988(2001)。

ルイス
Lewis, Sir Thomas

[生]1881.12.26. カーディフ
[没]1945.3.17. ハーフォードシャー,ラウドウォーター
トーマス・ルイス(卿)。イギリスの心臓専門医。ウィレム・アイントホーフェンが開発した,心筋の収縮を電位の変化で測定する弦検流計(弦電流心電計)を臨床検査に導入し,心電図による心臓疾患の診断法を創始した。炭鉱経営者の息子として生まれが,病気がちであったため家庭教師について学び,その後クリフトン・カレッジに進み,続いてカーディフのユニバーシティ・カレッジで医学を学んだ。不整脈心房細動・粗動などの分析に多くの貢献をし,1917年には第1次世界大戦の西部戦線の兵士を対象に作業と心臓負荷との関係を分析,努力症候群 effort syndromeと名づけた。さらに皮膚の微小血管の観察もした。

ルイス
Lewis, Andrew

[生]1720.10.9. アイルランド,ドニゴール
[没]1781.9.26. アメリカ,バージニア,ベッドフォード
アンドリュー・ルイス。アメリカの開拓者,軍人。1732年アイルランドからバージニア植民地(→十三植民地)に移住。初め測量士としてバージニア奥地を測量・探検した。フレンチ・アンド・インディアン戦争ではジョージ・ワシントン将軍やエドワード・ブラドック将軍のもとで働いた。1774年ダンモア卿戦争(→ダンモア伯)におけるポイントプレザントの戦いでアメリカインディアンのショーニー族に勝ち,1778~79年におけるジョージ・ロジャーズ・クラークの対インディアン遠征に道を開いた。アメリカ独立戦争では大陸軍の准将として活躍した。

ルイス
Lewes

アメリカ合衆国,デラウェア州南東部の町。デラウェア湾口の西側にある。 1631年にオランダ人が入植。古い港で 1812年のアメリカ=イギリス戦争のときにイギリス軍の砲撃を受けた。湾口の難所で海難が多かったため,25~35年防波堤が建設された。現在は保養地で,水産加工業が行われている。人口 2295 (1990) 。

ルイス

「デイ=ルイス」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルイス」の意味・わかりやすい解説

ルイス(Harry Sinclair Lewis)
るいす
Harry Sinclair Lewis
(1885―1951)

アメリカの小説家。2月7日ミネソタ州ソークセンターに生まれ、エール大学在学中、再度イギリス旅行を試み、一時アプトン・シンクレア主宰の社会主義的「共同生活」に加わる。大学卒業後、ニューヨークに出てジャーナリズムの職のかたわら作家生活に入る。イギリス旅行後アメリカ社会を見直す、平凡な会社員を描く最初の長編『わが社のレン氏』(1914)、都会的女性にあこがれる飛行士が主人公の『鷹(たか)の行方(ゆくえ)』(1915)ほか2、3の習作を発表したのち、中西部田舎(いなか)町の退嬰(たいえい)的生活を風刺する話題作『本町(ほんちょう)通り』(1920)で文名を確立した。

 その後、本格的な作家活動に入り、作品には、ビジネス万能時代の寵児(ちょうじ)、俗物的な不動産業者を通して典型的なアメリカ市民を描く『バビット』(1922)、科学の理想に殉じる細菌学者を描く『アロースミスの生涯』(1925)、キリスト教会の偽善を暴く『エルマー・ガントリー』(1927)、あこがれのヨーロッパに幻滅する自動車業者夫婦の愛の葛藤(かっとう)を円熟した筆致で描く『ドッズワース』(1929)などがある。1930年、アメリカ人としては初のノーベル文学賞受賞作家となる。その後も精力的に仕事を続け、キャリア・ウーマンを扱う『アン・ビッカーズ』(1933)、ファシズム台頭の危機を訴える『ここでは起こりえない』(1935)、黒人問題の不条理性を指摘する『王家のキングズブラッド』(1947)など、さらに10編を数える長編小説を世に送るが、かつての1920年代の精彩はなかった。しかしルイスは、アメリカが国際的大国にのし上がる時代のアメリカ人の生き方を戯画的に描き、シャーウッド・アンダーソンとともに新しいリアリズムを確立した作家といえる。1951年1月10日、ローマ郊外で客死。

[齊藤忠利]

『岩崎良三訳『アロースミスの生涯』(1958・荒地出版社)』『三浦新市・三浦富美子訳『エルマー・ガントリー』全2冊(角川文庫)』『齊藤忠利著『シンクレア・ルイス序論』(1988・旺史社)』『斎藤光編『シンクレア・ルイス』(『20世紀英米文学案内13』・1968・研究社出版)』


ルイス(William Arthur Lewis)
るいす
William Arthur Lewis
(1915―1991)

イギリスの経済学者。当時イギリス領であったセント・ルシア(1979年独立)に生まれる。7歳で父と死に別れ、公務員として働きながら奨学金を得てロンドン・スクール・オブ・エコノミックス(LSE)に入学し、1937年卒業。翌1938年同大学の講師となり、1940年にマンチェスター大学で修士号、1942年にLSEで博士号を取得した。1948年から1958年までマンチェスター大学教授、1958年から1962年まで西インド大学学寮長、1962年から1963年まで副総長を務め、1963年にプリンストン大学教授となった。1970年から1973年までカリブ開発銀行の総裁を務めている。

 当初は産業組織論を研究していたが、やがて開発経済学に進み、無制限労働供給の理論を唱えた。労働供給の弾力性が無限大であり、開発途上国において過剰労働が存在し、失業として顕在化せず過剰就業しているようにみえることを説明した。また、開発途上国の経済構造を分析し、工業部門と農業部門(伝統部門)からなる二重構造の経済発展モデル、二部門成長モデルを理論づけ、開発途上国が資本蓄積を進めるには資源のゆがみを正し、労働者の権利の向上と賃金の上昇が必要であることを示した。1979年に「とくに開発途上国問題の考察を通じた経済発展の先駆的研究」で、ノーベル経済学賞をT・W・シュルツとともに受賞した。黒人として初めてのノーベル賞受賞であった。

[金子邦彦]

『W・アーサー・ルイス著、益戸欽也・勝俣誠訳『人種問題のなかの経済』(1988・産業能率大学出版部)』『W・アーサー・ルイス著、水上健造訳『国際経済秩序の発展』(2001・文化書房博文社)』


ルイス(Gilbert Newton Lewis)
るいす
Gilbert Newton Lewis
(1875―1946)

アメリカの物理化学者。化学熱力学および原子価理論への貢献で著名である。マサチューセッツ州ウェイマスに生まれる。ネブラスカ大学、ハーバード大学に学ぶ。1907年マサチューセッツ工科大学助教授、1911年同教授、1912年カリフォルニア大学教授となる。物理化学においてギブズの熱力学の重要性が十分に理解されるためには、広範な実験的研究によってその適用性の広さが実証されることが必要であった。そのような研究の一つに、ルイスによる逃散能、活動度の概念の導入(1908)がある。これによって、不完全気体、実在溶液を理想系と同様な簡潔な形で熱力学的に記述することが可能となり、これらの概念は、その後物理化学における有用な概念として広範に用いられるようになった。名著『ルイス‐ランドル熱力学』(1923)は今日なお広く読まれている。

 19世紀における分子構造論の古典的基礎のうえに、20世紀に入って電子によって化学結合を説明する試みがいくつかなされた。その量子力学創設以前の研究の一つの頂点を示すのがルイスの原子価理論である。1916年の論文「原子と分子」において、イオンの形成を電子殻の形成に基づいて考察するとともに、非イオン性の化学結合は二つの原子が電子対を共有することによって形成される(今日でいう共有結合)と論じた。この直観的モデルの基礎づけは、量子力学によるハイトラー、ロンドン以後の化学結合論によって与えられる。酸・塩基の概念の拡張、重水の濃縮や重水素の単離、単分子反応論などがある。

[常盤野和男 2018年12月13日]


ルイス(Edward B. Lewis)
るいす
Edward B. Lewis
(1918―2004)

アメリカの発生遺伝学者。ペンシルベニア州ウィルクス・バレー生まれ。1939年ミネソタ大学卒業。カリフォルニア工科大学に進学、1942年遺伝学博士号、1943年気象学修士号を取得。1942~1945年アメリカ空軍で気象学者および海洋学者として従軍。1946年カリフォルニア工科大学講師。ケンブリッジ大学での研究を経て、1948年カリフォルニア工科大学生物学助教授、1956年同大学教授。1988年同大学名誉教授となる。

 ショウジョウバエを使った研究で、その発生段階で体節が形成されていく機構を遺伝子レベルで明らかにした。また体節の発生をつかさどる遺伝子群が、染色体上で頭尾軸に沿うような順番で配列されていることも明らかにした。ハエの初期発生の仕組みは、ヒトのような高等生物の発生においてもほぼ同じであることがわかり、発生遺伝学の躍進に大きく貢献した。これらの功績により、C・ニュスライン・フォルハルト、E・ウィシャウスとともに1995年のノーベル医学生理学賞を受賞した。

[馬場錬成 2018年12月13日]


ルイス(Oscar Lewis)
るいす
Oscar Lewis
(1914―1970)

アメリカの文化人類学者。コロンビア大学でルース・ベネディクトの下で人類学を学び、まずアステカ文化の伝統を受け継ぐメキシコのテポストランで集中的なコミュニティ研究を行う。1948年以来イリノイ大学で教鞭(きょうべん)をとり、メキシコ以外にスペイン、インド、プエルト・リコ、キューバなどで調査を行った。ルイスは、それまでの伝統的人類学がもっぱら対象としてきた小規模で均質的な「未開」社会から、現代の都市の住民へと視野を広げることにより、人類学に新しい展開をもたらした。とりわけ、主著『貧困の文化』(1959)は、メキシコ各地からメキシコ・シティに移住してきた5家族の日常生活を克明に描写し、「貧困の文化」が地域や国境を越えて存在することを示した。その他の著書に、『サンチェスの子供たち』(1961)、ピュリッツァー賞を受けた『ラ・ビーダ』(1966)などがあり、人類学者のみならず、世界中で広範な注目と共感を呼び起こした。

[加藤 泰 2019年1月21日]

『柴田稔彦・行方昭夫訳『サンチェスの子供たち――メキシコの一家族の自伝』合本版(1986・みすず書房)』『行方昭夫・上島建吉訳『ラ・ビーダ――プエルト・リコの一家族の物語』全3巻(1970、1971・みすず書房)』


ルイス(John Llewellyn Lewis)
るいす
John Llewellyn Lewis
(1880―1969)

アメリカの労働運動指導者。アイオワ州ルカス生まれ。幼時から炭鉱で働き、1919年合同炭鉱労働組合(UMWA)副会長、1920年会長となり、1960年までUMWAを指導。労組の産業別編成方式を主張して、アメリカ労働総同盟(AFL)内左派とともに1938年産業別組合会議(CIO)を結成し初代会長。ニューディール政策のF・D・ルーズベルト大統領を最初は支持したが、1940年には共和党候補を支持してルーズベルト3選に反対、CIO会長を辞任。1942年戦争協力のマレーCIO会長と対立し、UMWAをCIOから脱退させた。1946年AFLに復帰させたが、1947年組合活動を極端に規制するタフト‐ハートレー法に反対してふたたびAFLを脱退。AFLとCIOの合同(1955)以後もUMWAの独立した地位を守り、アイゼンハワー大統領の相互安全保障計画の助言者の一人といわれた。

[河内信幸]


ルイス(Clive Staples Lewis)
るいす
Clive Staples Lewis
(1898―1963)

イギリスの詩人、作家、批評家、英文学者、キリスト教伝道者。北アイルランドに生まれる。第一次世界大戦に参加して負傷。除隊してオックスフォード大学に学び、抜群の成績で卒業。同大学モードリン学寮のフェロー、チューターを30年近く務め、ケンブリッジ大学の中世・ルネサンス講座初代教授となる。30歳で無神論からキリスト教に回心、『悪魔の手紙』(1942)など多数の護教論を書く。中世文学論の『愛のアレゴリー』(1936。ゴランツ賞受賞)や『16世紀英文学史』(1954)などの研究書、『沈黙の惑星より』(1938)のようなSF小説、「ナルニア国物語」(1950~56)のようなファンタジー童話など、その活動の範囲は生涯多彩であった。

[吉田新一]

『早乙女忠訳『喜びのおとずれ――C・S・ルイス自伝』(冨山房百科文庫)』『山形和美編著『C・S・ルイスの世界』(1983・こびあん書房)』


ルイス(George Edward Lewis(古生物学者))
るいす
George Edward Lewis
(1908―1997)

アメリカの古生物学者。オハイオ州に生まれ、エール大学を卒業後、1937年に同大学より博士の学位を得た。1943~1945年の間エール大学で古生物学および地層学の助教授を務め、以後アメリカ地質調査所U. S. Geological Survey所員として研究を続けた。1932年学位論文執筆のためインドのシワリク地方(現、パキスタン領北部)を調査した際、ラマピテクス・プンジャビクスRamapithecus punjabicusの上顎骨(じょうがくこつ)化石破片を発見し、これが人類の系統につながる可能性を示唆した。その後同類の化石片がほかの遺跡でも発見され、比較研究の結果、現在ではオランウータンの系統のものと考えられている。

[埴原和郎 2018年12月13日]


ルイス(Pierre Louys)
るいす
Pierre Louys
(1870―1925)

フランスの詩人。ベルギーのガンに生まれ、ルイLouisとも表記した。高踏派の詩人エレディアの三番目の女婿となり、義父の影響を受けた。若き日のジッド、バレリーと交わり、同人誌『コンク』La Conqueを創刊、詩人として注目される。35歳のとき大病にかかり、ほとんど盲目となったが、30歳前の1890年から1900年に至る10年間に主要な仕事を果たした。

 古代ギリシアにあこがれ、官能的なヘレニストとして唯美主義を謳歌(おうか)。古代女流詩人の名を借りてルイ自身が書き上げた散文叙情詩『ビリティスの唄(うた)』(1894)や『詩集』(1916)で名をなす。小説家としても優れ、出世作『アフロディット』(1896)をはじめ、カサノーバをモデルとした『女と人形』(1898)、風刺小説『ポゾール王の冒険』(1901)や、短編集『紅殻(べにがら)』(1903)などがある。死後に『日記』(1929)が発表された。

[窪田般彌]

『吉原幸子訳『ビリティスの恋唄』(1982・パルコ出版)』『宮本文好訳『妖精たちの黄昏』(1982・弥生書房)』


ルイス(Clarence Irving Lewis)
るいす
Clarence Irving Lewis
(1883―1964)

アメリカの哲学者。マサチューセッツ州の生まれ。ハーバード大学卒業。カリフォルニア大学、ハーバード大学で教えた。その哲学はプラグマティズムとカント主義の総合といわれ、認識論・価値論の領域で多くの仕事をしたが、その総合はかならずしも成功したものとはみられない。むしろ、近代的な様相論理学の創始者として知られている。すなわち彼は、現代論理学の含意関係が、日常語の「ならば」の用法に忠実でないのに不満を抱き、この点の欠陥を補うと思われる様相論理の公理系をいくつか提案した。著書には『記号論理学概観』(1918)、『知識と評価の分析』(1946)などがある。

[吉田夏彦 2015年10月20日]


ルイス(Juan Ruiz)
るいす
Juan Ruiz
(1283?―1350?)

聖職者としての呼称「イータの主席司祭」Arcipreste de Hitaでも知られるスペインの詩人。生涯に関する資料的裏づけは皆無だが、彼の長編詩『聖(きよ)き愛の書』(14世紀末の写本3種あり)にみられることばに従えば、マドリード近郊のアルカラ・デ・エナーレスに生まれ、トレドで教育を受けたらしい。『聖き愛の書』は中世スペイン文学の一大傑作で、自伝的体裁をとり、肉体的な愛から崇高な宗教上の愛に至るまで、さまざまなアレゴリーを駆使して描いている。詩人は「罪を犯すのは人の性(さが)」という覚めた目で現実を見据え、自分を32の寓話(ぐうわ)に絡ませて筋を展開する。ときには奔放な色欲を是認し、またときにはそれを痛烈に排撃して神への道を諭(さと)す。当然あいまいで矛盾する箇所も多いが、それは現実・人間の複雑さと多様性に呼応すると同時に、この作品に豊かな多義性を潜ませる文学上の修辞とも解釈される。

[清水憲男 2017年12月12日]


ルイス(Joe Louis)
るいす
Joe Louis
(1914―1981)

アメリカのプロボクサー。「褐色の爆撃機」の異名をとった第16代世界ヘビー級チャンピオン。アラバマ州の貧しい綿つみ農家に生まれた。貧困からの脱出を図ってボクサーとなり、1937年ジミー・ブラドック(アメリカ)を8回ノックアウトしてタイトルを獲得。以来不敗のまま、「もう自分には敵はいない」と49年にタイトルを返上するまで12年間も王座にあり、25回の防衛(うち21KO)を成し遂げた。これは全階級を通じていまだに破られない世界記録である。51年にR・マルシアノに敗れ引退するまでの戦績は71戦68勝(うち54KO)3敗。51年(昭和26)11月には来日して東京・後楽園球場で模範試合をみせた。54年に「ボクシング殿堂」入りした。

[石川 輝]


ルイス(Dio Lewis)
るいす
Dio Lewis
(1823―1886)

アメリカの新体操New Gymnastic創始者。ニューヨーク州ケユガの一農家に生まれる。15歳で教師になり、ハーバード大学医学部に学んだ。1860年までは学校の教師・医師、そして生理学・衛生ならびに健康問題についての民衆講演者であった。その間に新しい体操の体系によってアメリカ人の身体を改善せねばならないとの結論に達した。すなわち彼の体操の対象は、肥満した人、虚弱な人、年少者、女性のごとく身体修練をもっとも合理的に実施すべき人々で、体操の中心は棒、亜鈴(あれい)、こん棒(ぼう)、木環などを使用する手具体操であった。61年ボストン市に体育師範学校が創設され、彼が体操を担当、ルイス式体操を普及させた。

[上迫忠夫]


ルイス(Morris Louis)
るいす
Morris Louis
(1912―1962)

アメリカの抽象画家。メリーランド州ボルティモアに生まれ、ボルティモア市立大学などに学ぶ。1936年以後はニューヨークに移住して、連邦美術計画にも参加した。第二次世界大戦後、メリーランドのシルバー・スプリングで作品を発表。53年にワシントンDCで最初の個展。57年以降はニューヨークで作品を発表し続け、62年にワシントンDCで没するまで、ヨーロッパ各地でも個展を開いた。その絵画は、余白を利用した画面に鮮やかな帯状の色彩を並置して、色面の対比による華やかな効果を生み出すところに特徴がある。

[石崎浩一郎]


ルイス(Alun Lewis)
るいす
Alun Lewis
(1915―1944)

イギリスの詩人。ウェールズ南部の炭鉱地に教師の子として生まれ、ウェールズ大学で中世史を学ぶ。第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)と同時に従軍、陸軍中尉としてインドに派遣され、ビルマ戦線で戦死した。詩集『特別攻撃隊の夜明け』(1943)、『聞け、ラッパの音!』(1945)、短編集『最後の審判』(1942)など、戦争の影の濃い、情熱と哀調に富む作品は早くから高い評価を受けた。書簡を含む遺作集『緑の木陰に』(1948)がある。

[上田和夫]


ルイス(Cecil Day Lewis)
るいす

デー・ルイス

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