常松村(読み)つねまつむら

日本歴史地名大系 「常松村」の解説

常松村
つねまつむら

[現在地名]尼崎市常松一―二丁目・武庫豊町むこゆたかまち二―三丁目・常吉つねよし二丁目・西昆陽にしこや一―二丁目

西昆陽村の南に位置し、西は武庫川を隔てて段上だんのうえ(現西宮市)。北側を通る山陽道が武庫川を越えるひげの渡があり、西昆陽村と隔月で西側への渡川を担当した(尼崎市史)。文明三年(一四七一)一二月二六日付で摂津守護代薬師寺元長が郡代の押妨を止め、当地や「稲底村」(稲垣村か)を含む武庫・川辺かわべ郡内の所々を南都(興福寺)雑掌に去り渡すよう命じており(「大乗院寺社雑事記」同四年正月八日条)、この頃には守護や武士押領を受けていた。


常松村
つねまつむら

[現在地名]出雲市常松町

高浜たかはま川左岸にあり、東は堀江ほりえ村、南は江田えだ村。建長元年(一二四九)六月日の杵築大社造宮所注進状(北島家文書)の「流鏑馬十五番」に「十五番 多禰上郷、合須佐郷、恒松保」とみえる。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳には「恒松保十二丁七反三百歩牟三郎左衛門尉」とあり、牟三郎左衛門尉が地頭であった。鎌倉末期から南北朝期と推定される年月日未詳の経田断簡(鰐淵寺文書)によれば、「一恒松保内、壱町弐段 此内、現作一段余不作也」とあり、保内には鰐淵がくえん寺の経田が存在した。


常松村
つねまつむら

[現在地名]筑紫野市常松・桜台さくらだい一―二丁目

永岡ながおか村の南東、南東へ流れる宝満ほうまん川流域にある。村名は恒松とも記される(正保郷帳など)。文明一〇年(一四七八)一〇月一三日の大内政弘下文(正任記)では、白松三郎跡の「三笠郡恒松」七町五反などが窪山盛恒に宛行われている。小早川時代の指出前之帳では常松村の田一七町二反余(分米二一一石余)・畠二町三反余(分大豆一五石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高は三五九石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高三六八石余、家数一四・社一、人数九四(田圃志)


常松村
つねまつむら

[現在地名]気高町常松

河内こうち川東岸、富吉とみよし村の南に位置する。南は下光元しもみつもと村、河内川を挟んで西は下坂本しもさかもと村。拝領高は三二二石余、本免は五ツ三分。藪役銀一匁八分が課せられ(藩史)大坪初鹿野各務安富・吉岡・大橋各氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数三三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によると生高三六四石余、竈数三三。同六年には光元谷奥部の羽田はねだ(末用川)の水利権をめぐっての争いから当村と下光元村の者が申合せ、河内川対岸二本木にほんぎ村の用水で御普請所であった「化け井手筋」を埋めてしまうという事件が起こっている(在方諸事控)


常松村
つねまつむら

[現在地名]行橋市常松

福丸ふくまる村の南に位置し、小波瀬おばせ川右岸の平野部に立地する。恒松とも記される(正保国絵図)。中世の恒松名の遺称地。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高一一五石余、家数一〇・人数一五(うち百姓三)、牛三。郷村高帳では高一一八石余、うち新田高二石余。旧高旧領取調帳では高一一七石余。元禄一五年(一七〇二)の京都郡薪札御改帳(郡典私志)に、薪札運上銀納の村として常松村がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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