常陸国分寺跡(読み)ひたちこくぶんじあと

日本歴史地名大系 「常陸国分寺跡」の解説

常陸国分寺跡
ひたちこくぶんじあと

[現在地名]石岡市府中五丁目

石岡の市街地北端にあり、国指定特別史跡跡地の西半分に現在は浄瑠璃山東方院国分寺(真言宗智山派)がある。創建の年代は不詳であるが、「常陸府中鏡」(石岡市史)は天平一五年(七四三)起工、天平勝宝四年(七五二)成就という。「延喜式」(主税寮)の諸国本稲に「国分寺料六万束」とあり、全国でも屈指の寺領を得て繁栄したと思われる。仁和四年(八八八)には常陸国書生飛鳥貞成が、国分寺で盛大な供養を行ったとされ、「本朝法華験記」(「扶桑略記」仁和四年一一月二三日条)には次のように記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「常陸国分寺跡」の解説

ひたちこくぶんじあと【常陸国分寺跡】


茨城県石岡市府中にある国分寺跡。現在の国分寺の寺域内に往時金堂跡、講堂跡の土壇などが残り、奈良時代に属する鐙瓦(あぶみがわら)、宇瓦(のきがわら)などが出土している。とくに創建時の瓦である複弁十葉蓮華文軒丸瓦(のきまるがわら)は、平城京羅城門(らじょうもん)跡で発見された軒丸瓦と同系の文様であることが注目され、常陸国分寺建立に際し、当時の中央政府が技術指導をしたことを示唆している。国分寺跡として保存の状況もきわめて良好で、1922年(大正11)に国の史跡になり、1952(昭和27)年、特別史跡に指定された。1977年(昭和52)の発掘調査で、現在の本堂の西側に鐘楼の基壇が発見され、次いで、1981年(昭和56)以降の発掘調査で、それぞれの伽藍(がらん)の基壇の規模が明らかになった。金堂跡は現在残されている基壇の約4倍あることがわかり、当時は大建造物を有する寺院だったことがうかがえる。出土した遺構のうち、長く判明していなかった七重塔の位置も、現在では寺域東側に推定されている。JR常磐線石岡駅から徒歩約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報