日本歴史地名大系 「平床村」の解説 平床村ひらとこむら 熊本県:天草郡河浦町平床村[現在地名]河浦町新合(しんごう)頭(かしら)岳(四六五・七メートル)の南を蛇行する一町田(いつちようだ)川沿いの村。東は一町田川を隔てて津留(つどめ)村・市瀬(いちのせ)村、南は白木河内(しらきがわち)村に接する。縄文時代の小塚渡(こづかわたし)遺跡・妙見(みようけん)遺跡から石斧・石鏃が出土、ほかに二段築円墳の小塚古墳がある。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳に高一八五石八斗余とある。壱町田組に属し、庄屋は富永家。万治二年(一六五九)石高半減により八二石五斗余となった(天草風土考)。「国志草稿」に竈数一五・男女数一三〇とある。 平床村ひらとこむら 島根県:江津市平床村[現在地名]江津市川平町平田(かわひらちようひらた)那賀郡南東部の江川下流部左岸、西は阿刀市(あといち)村。村域の大部分は標高二〇〇メートル以上の山地で、平床川・原(はら)川が北流して南川上(みなみかわのぼり)村へ出る。元和五年(一六一九)の古田領郷帳では村名はなく、南川上村に含まれる。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では「南川上村ヘ入ル」と肩書され、高一三四石余、免五ツ二歩。人口は延享三年(一七四六)一八五人・文化八年(一八一一)二一八人・慶応四年(一八六八)三三六人(浜田藩跡市組の人口)。明治八年(一八七五)田原(たわら)村と合併して平田村となる。 平床村ひらとこむら 石川県:羽咋郡志雄町平床村[現在地名]志雄町平床海老坂(えびさか)村の西、宝達(ほうだつ)山中腹のわずかな平地に集落がある山村で、標高約二〇〇メートル。正保郷帳によると高一二一石余、田方六町七反余・畑方一町三反余、免三ツ八歩三厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高一二九石、免四ツ五歩、新田高二石、小物成は山役七五匁・苦竹役一一匁、鳥役四匁(出来)とある(三箇国高物成帳)。同一一年の十村高辻帳(平畠文書)によると村高のうち四七石余は肝煎与四兵衛持高。 平床村ひらとこむら 大分県:大分郡挟間町平床村[現在地名]挟間町田代(たしろ)石城(せきじよう)川右岸にあり、南東下流側は田代村、西から北は内成(うちなり)村(現別府市)。江戸時代を通じて府内藩領で、中郷内成組に属した(府内藩記録)。正保郷帳に村名がみえ田高四三石余・畑高一二石余、挟間庄に所属。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by