平野富二(読み)ひらのとみじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「平野富二」の意味・わかりやすい解説

平野富二
ひらのとみじ
(1846―1892)

印刷造船業の先駆者。長崎の人。1861年(文久1)幕府の長崎飽ノ浦(あくのうら)製鉄所(現在の三菱(みつびし)重工業長崎造船所)に入り、本木昌造(もときしょうぞう)に師事した。1869年(明治2)には長崎製鉄所小菅(こすげ)造船所長となり1870年辞任。本木を助けて長崎の新町活版所や、東京の長崎新塾出張活版製造所(後の東京築地(つきじ)活版製造所)の経営軌道にのせ、「印刷機がなくては活字が普及しない」と、印刷機の製造事業を創始した。また長崎の経験を生かして、1876年には官営石川島造船所の貸下げを受け、ついで横浜製鉄所跡のドック借用、造船や機械の製造に努め、石川島播磨重工業(いしかわじまはりまじゅうこうぎょう)(現、IHI)の源流をつくった。

[飯田賢一]

『三谷幸吉編著『本木昌造・平野富二詳伝――伝記・本木昌造/平野富二』(1998・大空社)』

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朝日日本歴史人物事典 「平野富二」の解説

平野富二

没年:明治25.12.3(1892)
生年弘化3.8.14(1846.10.4)
明治時代実業家。石川島造船所(石川島播磨重工業)の創立者。幕臣矢次豊三郎の次男として長崎に生まれる。幼名富次郎,慶応2(1866)年より平野姓を名乗る。長崎奉行所御用所番,幕営長崎製鉄所機関手見習,幕府所有西洋型汽船(船長本木昌造)の乗組機関手,幕府軍艦回天の1等機関士を経て,同3年坂本竜馬の要請によって土佐藩船の機械方となる。翌年長崎に戻って製鉄所機関方となり,明治3(1870)年10月製鉄所兼小菅造船所長に就任するが,両所の長崎県から工部省への移管に伴い翌4年辞職。同年本木昌造の活版事業を引き受け,5年「首証文」を差し入れて借り入れた1000円を持参して従業員10名と共に上京,神田佐久間町に活字販売店を開設,6年7月には築地に平野活版製造所を設立。9年10月閉鎖中の官営石川島修船所の貸下げを許可され,わが国最初の近代的民間造船所である石川島平野造船所を創立,続いて12年12月横浜製鉄所を借用,石川島造船所の分工場とし,17年末には同工場を石川島に移築合併した。21年末石川島造船所は3年10カ月の建造期間を要して民間造船所最初の軍艦「鳥海」を竣工させたが,翌22年1月それまでの平野の独力による経営から有限責任石川島造船所(資本金17万5000円)に移行した。<参考文献>三谷幸吉編『本木昌造平野富二詳伝』,寺谷武明『日本近代造船史序説』

(沢井実)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平野富二」の意味・わかりやすい解説

平野富二
ひらのとみじ

[生]弘化3(1846).8.14. 長崎
[没]1892.12.3. 東京
近代印刷事業の開拓者,製鉄業者。初め長崎製鉄所に勤務したが,明治4 (1871) 年本木昌造の懇請で長崎新塾活版製造所の経営を引受け,初めて鉛製活字の製造に成功した。同5年東京に進出して活字の製造販売を,1873年印刷機械の製造販売を始めた。そして,築地体 (明朝体) の活字を研究開発する一方,85年東京築地活版製造所を設立した。 76年官営石川島修船所の敷地と船渠を貸与され,最初の民間造船所として平野造船所を創設した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平野富二」の解説

平野富二 ひらの-とみじ

1846-1892 明治時代の技術者,実業家。
弘化(こうか)3年8月14日生まれ。明治2年長崎製鉄所長兼小菅(こすげ)造船所長。4年辞職して本木(もとき)昌造の活字の鋳造事業をたすけ,6年東京築地に平野活版製造所を設立。9年石川島に日本初の民間造船所(のちの石川島播磨(はりま)重工業)を創立した。明治25年12月3日死去。47歳。肥前長崎出身。本姓は矢次。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「平野富二」の解説

平野 富二 (ひらの とみじ)

生年月日:1846年8月14日
江戸時代;明治時代の実業家;技術者
1892年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の平野富二の言及

【石川島播磨重工業[株]】より

…石川島重工業は,1853年(嘉永6)隅田川の河口石川島に幕命を受けて開設された水戸藩の日本初の洋式造船所石川島造船所をその出発点としている。明治維新で官営となり,さらに移転になった同造船所のドック・敷地等を借りて76年に旧幕臣平野富二が石川島平野造船所を個人創業した。89年改組して有限責任石川島造船所を設立,93年(株)東京石川島造船所と改称。…

【印刷】より

…その指導のもと活字鋳造に成功した本木は,70年〈新街活版所〉を創設,同年門下の小幡正蔵,酒井三造らは大阪に〈長崎新塾大阪活版所〉を開いた。ついで門下の平野富二は新街活版所を引きつぎ,72年東京に〈長崎新塾出張活版製造所〉(発展して〈築地活版製造所〉になる)をつくり,73年には国産最初の本格的な印刷機を製造した。また,本木は横浜に陽其二(ようそのじ)を派遣して活版所を開かせ,日本最初の日刊新聞《横浜毎日新聞》の発刊(1870)にも尽力した。…

【印刷工】より

…【二宮 宏之】
[日本]
 日本の活版印刷業は,1870年(明治3),本木昌造によって創業された長崎の新街(町)活版所がその起りである。71年に平野富二が経営のいっさいを引き受け,経営の刷新と工場の大改革を断行した。そのなかに〈大イニ分業ノ法ヲ設ケ〉たことがあげられているので,母型の製造,鋳造,文選,植字,印刷,解版などの作業分担,各係がきめられたものとみられる。…

【本木昌造】より

…この間,蒸気船を操縦して長崎~江戸間を往復し,造船・航海術に寄与したほか,日本最初の鉄製橋(長崎西ノ浜)を架設するなど,多彩な業績をのこしたが,69年には製鉄所構内に活版伝習所を設置,上海からアメリカ人技師ガンブルWilliam Gambleを迎え,ついに金属活字の鋳造に成功した。70年長崎新町に活版所を開き,活字製造と印刷業を始めるとともに,門下の平野富二(1846‐92),陽其二(ようそのじ)(1838‐1906)らの協力を得て近代印刷技術発展の基礎を築き,またそのとぼしい利潤を新街私塾という一種の市民学校の運営にあて,印刷出版界その他で重きをなす次代の人材を育成した。彼は文字情報の大衆伝達への道を営々と築き上げた開拓的技術家である。…

※「平野富二」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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