幸野村(読み)こうのむら

日本歴史地名大系 「幸野村」の解説

幸野村
こうのむら

[現在地名]湯布院町下湯平しもゆのひら 幸野

ほし(七二九・一メートル)尾子おこ(七一〇メートル)南西、大分川左岸に開けた扇状地に立地し、対岸小平おひら村。文和三年(一三五四)一〇月一六日に戸次浄心(重親)は家領を大友惣領大友氏時に譲っているが、そのなかに「香野村」も含まれている(「戸次浄心安堵申状案」大友文書)。当地のことであろう。当地の「幸野山」(星岳)は中世以来由原ゆすはら(現大分市)の造替の際に「祓御行幸」が行われる場所であった。当地の幸野氏の先祖は大友氏の家臣で、官途状・名字状や感状を所持している。また由原宮の三神が六年に一回の大神宝会にあたって星岳まで神輿に乗って行幸し、そこで一泊ののち還幸していた。


幸野村
こうやむら

[現在地名]猪苗代町川桁かわげた

都沢みやこざわ村の北、川桁山地西方の扇状台地にあり、西は新屋敷あらやしき村。北方観音寺かんのんじ川が南西流する。川東組に属した。かつて集落は北東川桁山地麓の本寺もとでら(元寺)にあって、高野村と記していたが、康暦(一三七九―八一)頃より同所にあった観音寺にちなみ観音寺村と称するようになった。天正一七年(一五八九)磨上原合戦の兵火にかかって現在地に移り、寛文年中(一六六一―七三)荒野村に改め(新編会津風土記)、幕末頃幸野村に改めた。なお「猪苗代町史」は貞享元年(一六八四)観音寺村より荒野村、宝暦六年(一七五六)に幸野村に改めたとする。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では猪苗代郡のうちに観音寺とみえ、高四一二石余。寛文六年の「会津風土記」には荒野とある。享保三年(一七一八)には高六四四石余、家数七八、男一六七・女一四三、馬三八、天明六年(一七八六)には高六四四石余、家数三八、男八〇・女七一、馬一八(「留帳」小林家文書)


幸野村
こうのむら

[現在地名]小国町上田かみだ

樅木もみのき川沿いに集落が広がり、慶長国絵図に村名がある。北里手永に属し、「国誌」に「当所ヲ里俗ハ小原田村ト称リ、此村ノ内馬場ト云小村アリ」とあり、元禄一二年(一六九九)の北里手永高反別帳に小原田おはるだ村として高一九〇石一斗余、男五八・女四四、竈数二〇、馬三・牛二二とある。明和六年(一七六九)の北里手永分村名小村名(小国郷史)では幸野村とあり、小村に巡淵めぐりふち・立石・長筬ながおさ・坂下がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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