日本歴史地名大系 「広見村」の解説 広見村ひろみむら 岐阜県:関市広見村[現在地名]関市広見・広見北町(ひろみきたまち)・広見東町(ひろみひがしまち)など武儀(むぎ)川左岸にあり、北部と南部の山地に挟まれた山村。武儀郡に属し、東は池尻(いけじり)村。弘見とも記す。圃場整備前には条里遺構があった。応永一八年(一四一一)五月三日の比丘尼明輪先達檀那売券(真長寺文書)に檀那在所の一つとして「弘見」とみえるが、それ以前より存在していた皇室領宇多弘見(うたひろみ)庄の庄域に比定される。慶長郷帳では村高五四八石余。元和五年(一六一九)幕府領から尾張藩領となり、幕末に至る。正保郷帳では田方四八五石余・畑方六三石余、紙舟役三斗余・山年貢一二石余、ほかに新開七石がある。 広見村ひろみむら 愛媛県:北宇和郡広見町広見村[現在地名]広見町広見広見川中流域の谷間に位置する。北は下大野(しもおおの)村、南は小倉(おぐわ)村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「広見村 茅山川有」と村名がみえる。「宇和旧記」によると、永正一一年(一五一四)三月の当村の広見宮棟札に「大日本伊予州宇和荘黒土郷貞延村」とあり、中世においては貞延組に属していたことがわかる。宇和島藩領。太閤検地の石高は三八二石五斗で、耕地面積の比率は田七五パーセント、畑一五パーセント。 広見村ひろみむら 愛知県:豊田市石野・猿投・保見地区広見村[現在地名]豊田市広幡(ひろはた)町市域の北西端にあり、伊保(いぼ)川の支流西広見川の谷間に位置する。貞治三年(一三六四)猿投神社遷宮の際の上葺勧進帳(猿投神社文書)に「一貫五百文 弘見郷」と記す。「八講牒」裏書に、天正一四年(一五八六)の織田信雄の検地では、「尾州織田大納言殿御国中御検地被成候而、御縄を以当社も三百七拾五貫三百文余、猿投・神郷両郷仍御寄進之候、弘見・深見一所ニ所務仕候者也」とある。 広見村ひろみむら 愛媛県:南宇和郡一本松町広見村[現在地名]一本松町広見一本松盆地の北部に位置し、北と東と南は板尾(いたお)村、西は上大道(うわおおどう)村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「広見村 茅山有、日損所、広キ原有」と村名がみえる。干害を受けやすいとあるが、「墅截」によると亀かくし築池などの池が記され、水掛りは「吉」となっている。宇和島藩領。太閤検地の石高は九六石一斗で、耕地面積の比率は田九三パーセント、畑七パーセントとあるが、寛文検地では石高が八二パーセントも増加し、耕地面積も八倍になっている。 広見村ひろみむら 愛知県:東加茂郡足助町広見村[現在地名]足助町白山(しらやま)現主要地方道瀬戸―設楽線に沿う。東は深田(ふかだ)村、南は足助村、西は大塚(おおつか)村・栃(とち)ノ沢(さわ)村、北は中山(なかやま)村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。寛永一二年(一六三五)当時、旗本梶次郎兵衛知行地。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by