府内町
ふないまち
[現在地名]大分市府内町一―
二丁目・
中央町一―
三丁目・
都町一―三丁目・
末広町一丁目
城下町組の一町。府内城南西の中堀から外堀にかけての地域と、同じく西側の中堀と外堀の間の大部分からなる。南西部の町は東西に延びる二本の通りに沿う檜物町・東上市町・中上市町・西上市町・鍛冶屋町・唐人町・名号小路町・於北町の八町、西部は南北に延びる四本の通りに沿う京町・革屋町・大工町・魚町・茶屋町・白銀町・西小路町・桜町・室町・西町・清忠寺町・上柳町・中柳町・下柳町・塗師町・田町・今在家町・寺町・下紺屋町・上紺屋町の二〇町と、侍町西口と笠和口を結ぶ東西の町筋に沿う竹町があり、ほかに町組松末町と入会支配の東新町が城下南東の門外にある。
一町三郷制のもとで、町組の府内町(府内庄屋)の支配下に前掲三〇町(うち一町は入会支配)が置かれた。正保郷帳に府内とみえ、田高四七四石余・畑高二七石余、笠和郷に所属。明暦三年(一六五七)の御取ヶ郷帳(府内藩記録)以降府内町で高付される。宝永七年(一七一〇)の高一千一七六石余、うち二一石余免許、町屋敷高二六〇石余・田畑高八九六石余。曲輪内町数二九、家数六七〇、うち一八軒免許、本光寺・常妙寺・光西寺・大智寺・報恩寺があり(人数七八)、人数三千四八六、馬三二・牛一(豊府指南)。安永九年(一七八〇)二千四三七人、文化二年(一八〇五)の竈数五五九・人数二千一八〇と(府内藩日記)、やや減少気味である。この間の明和八年(一七七一)二月の大火では下柳町から出火、府内町で五八二軒、土蔵二五・納屋六一を焼失した。明治元年(一八六八)には五一八戸・二千一〇〇人(同書)。同八年松末町などと合併して大分町となる。
〔檜物町〕
府内町の南西に位置する町。北は中堀に沿い、堀沿いの町並は西の東上市町と一続き。東は拾間堀に架かる橋で町組松末町の中之町に通じる。慶長府内絵図に町名がみえ、北頬・南頬ともに六〇間、南北の入一五間。天和三年(一六八三)当町与左衛門の酒場を清忠寺町の孫七が買受けている(府内藩日記)。宝暦三年(一七五三)営業を許可された商人のうちに七島仲買一軒があった(同書)。享和三年(一八〇三)許可された鍛冶屋のうち一軒があった(二巻本「大分市史」)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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