庵村(読み)いおりむら

日本歴史地名大系 「庵村」の解説

庵村
いおりむら

[現在地名]七尾市庵町

江泊えのとまり村の南に位置し、灘浦なだうら海岸に沿って南から虫崎むつさき・庵・百海どうみ白鳥しらとりの四集落が連なる。地名熊淵くまぶち長者が同地の大熊、虫崎の毒虫白鳥の悪鳥を退治するため、少彦名神とともに当地に庵を結んだことに由来するとも、老翁が海岸に寄着いた白鳥を笊籠ですくいあげ背後の山に祀り、その海岸を白鳥、山を笊籠いかけ(伊掛山)とよび、老翁の庵を結んだところが当地ともいう(鹿島郡誌)。永享二年(一四三〇)二月一七日の熊野那智山旦那願文(熊野那智大社文書)大呑おおのみ伊折いおり村とみえ、同村の四名が那智山御師うくいの左衛門三郎の檀那であったことが知られる。伊折村は灘浦海岸から伊掛いかけ(二五二・三メートル)の麓および佐々波さざなみ川上・中流域にかけての地域に比定される。同一〇年八月二七日の旦那願文(米良文書)によると、米良実報院の檀那として伊折郷の一〇名と先達が知られ、同一二年八月二九日には実報院配下の「いほり」の熊野講が確認される。講衆のうちに聖寺の大坊光俊や能登島向田こうだ(現能登島町)の薬師坊蓮海も加わっており、先達は六角堂上野の厳尊であった(「旦那願文」同文書)


庵村
いおりむら

[現在地名]佐用町庵

平福ひらふく村の東、佐用川支流の庵川沿いに位置し、下庵・庵・小和田おわだの三集落がある。両側は標高三〇〇―四〇〇メートル級の山地。江戸期の領主変遷平福村に同じ。正保郷帳に村名がみえ、田方一三九石余・畠方六七石余、川懸水損所、芝山小松はへ有と注記される。天保郷帳では高二一七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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