中国、建安(後漢(ごかん)の献帝劉協(りゅうきょう)の年号、196~220)年間の文人、孔融(こうゆう)(153―208)、王粲(おうさん)(177―217)、劉楨(りゅうてい)(?―217)、陳琳(ちんりん)(?―217)、阮瑀(げんう)(?―212)、徐幹(じょかん)(171―217)、応瑒(おうとう)(?―217)の7人をさす。曹丕(そうひ)がこの7人を批評の対象に取り上げたことに始まる。このうち孔融は世代も上で立場も異なり、曹操に早く殺された。ほかの六子は、三曹(曹操およびその子の曹丕、曹植)に仕え、主従の関係を越える価値を文学に共有し、新しい文学集団を形成した。後漢末の動乱期を反映し、悲哀と激情に傾く作品が多いが、「建安の風骨」(李白(りはく))と称されるように、修辞に埋没しない人間存在の高揚がみられる。また民間の歌謡であった五言詩を知識人の文学形式に定着させたことは、中国文学史の展開に大きな影響を与えた。
[成瀬哲生]
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…魏の曹操はすぐれた政治上の指導者であるとともに,新しい文学運動の推進者として,卓越した手腕を発揮した。彼の配下には,曹丕(そうひ)・曹植の2人の息子や,王粲(おうさん),劉楨(りゆうてい)をはじめとする建安七子(けんあんしちし)といったすぐれて個性的な文人たちが結集して,文学の気運を盛りあげた(建安文学)。彼らは旧宮廷文学の様式であった賦よりも,民間に起源をもつ楽府(がふ)や五言詩に力を傾注して,詩の発展に大きな画期を作った。…
…中国の文字で書かれた記録・資料の最も古いものは,紀元前13世紀にさかのぼる。その時代から現代にいたるまで約3000年間の文学の発展を五つの時期に分けて述べよう。
【古代(西周および春秋戦国時代――前11~前3世紀末)】
中国文学の源流は二つある。一つは史官の文学,他は巫(ふ)の文学である。文字(漢字)が作り出されたのはごく古く,前20世紀以前だと思われる。今日残存する最古の記録は殷代の〈卜辞(ぼくじ)〉であるが,それに用いられた漢字は単純な絵文字ではなく相当進歩した段階にあった。…
※「建安七子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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