中国の詩体名で,五字(5音節)句によって構成された詩を言い,七言詩とともに長く中国詩の主要形式であった。押韻・平仄(ひようそく)・対句および句数(偶数句)によって,古体の五言古詩と,今(近)体の五言律詩・五言排律・五言絶句に分類される。律詩は8句,排律は10句以上,絶句は4句より成り,平仄に規定があり,同じ韻をふまねばならず(一韻到底という),律詩・排律は中で対句を用いる必要があるが,古詩は句数が一定せず,平仄に規定がなく,押韻も途中で換韻することが可能である。
中国最古の詩集《詩経》が四言形式を原則としたのは,リズムの基礎をなす2字を積み重ねた4字句が,単音節語という中国語の基本性格に基づくものであり,4字句がもつ安定感が平衡を貴ぶ中国人に好まれたためである。これに対し,5字句は平衡をくずして不安定を招く性格がある。しかしその反面,屈曲した個人感情,錯雑した事物の姿,激烈な悲喜の情などの表現には,適した形式と言い得る。この点,梁の鍾嶸(しようこう)が《詩品》序において〈五言は文学表現の中枢を占め,多くの文学形式の中では滋味豊かなものである。それゆえ,世俗の歓迎を受けたのである。それは五言詩が事象を指摘し,客体を造型し,感情をくまなく表現し,外物を描写する上で,最も周到な働きをする文学形式であったためではなかろうか〉と五言の優点を指摘したのは,十分に正しいであろう。
五言詩は3世紀初めの〈建安文学〉において,従来の民間歌謡の形式から,知識人の思想感情表現の具となり,形式に工夫がこらされ,内容も多様化して,一流文学の位置を獲得したが,その淵源は古く,西晋の摯虞(しぐ)の〈文章流別志論〉(《芸文類聚》巻56所引)に〈五言なるものは,“誰か謂(い)う雀に角(つの)なしと,何を以って我が屋を穿(うが)つや”の属是(こ)れなり。俳優倡楽においてこれを用う〉との指摘がある。例示した“誰か謂う云々”の原文は,〈誰謂雀無角,何以穿我屋〉であり,《詩経》召南,行露に見える。〈行露〉は四言七句と,この2句を含む計8句の五言より成り,後世の五言と同じく,上2字下3字の間に小休止を持ち,完全な五言のリズムを備えている。〈俳優倡楽〉とは,当時卑俗視された歌舞音曲の芸人を指し,五言が民間演芸のうちに流行したことを物語る。《詩経》の五字句は,ほかに〈豳(ひん)風〉九罭(きゆういく)・〈小雅〉北山および〈大雅〉緜(めん)などの篇に見え,劉勰(りゆうきよう)《文心雕竜》明詩篇は五言詩の歴史として,〈行露〉以外に,《孟子》離婁(りろう)の〈滄浪〉篇・《国語》晋語の〈暇予〉篇・《漢書》五行志の〈邪径〉篇などをあげる。中では〈邪径〉篇が完全な五言形式であるが,劉勰の挙例が,俗謡・童謡および倡優の歌であって,五言と民間歌謡の強い結びつきを示す。漢代の五言詩は楽府(がふ)や古詩の類に現存するが,ほとんどが民謡を発生源として持つ。《文心雕竜》明詩篇に〈四言は正体なれば,則ち雅潤を本(もと)と為し,五言は流調なれば,則ち清麗を宗(むね)に居(お)けり〉と言うのは,四言と五言の差異を簡明に示したものである。五言詩はほとんどが後漢の作である〈古詩群〉(《古詩十九首》が代表)で形式内容がほぼ整い,建安・太康の熟成期を経て,斉の〈永明体詩〉で人工的韻律美を導入して,今体の準備をし,初唐期に至って平仄の法則を確立して,今体の五言律詩を完成し,その位置は揺るぎないものとなった。
執筆者:伊藤 正文
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一句が5字、つまり5シラブルの句からできている中国古典詩の総称。四言を基調とする『詩経(しきょう)』、三・六言の『楚辞(そじ)』のなかにも、すでに部分的に五言の句はみられるが、全体が五言の句からなる詩は、後漢(ごかん)の班固(はんこ)(32―92)の「詠史(えいし)詩」あたりが初めである。従来は、前漢の李陵(りりょう)と蘇武(そぶ)の唱和した詩(前100ころ)が五言の始めと伝えられていたが、今日ではこれは偽作とされる。前漢のなかば過ぎから、民間の歌謡に五言の形をとるものが現れており、後漢の初めになって、文人が手がけるようになったものであろう。その発生の源を『詩経』や『楚辞』に求める説もあるが、前漢武帝ごろから盛んになった外来音楽の流入の刺激によって、新たな5シラブルの歌がおこったとする説が有力である。
文人の手すさびの域を脱して、本格的な五言詩の形成をみるのは、後漢なかば過ぎ(2世紀)の「古詩十九首」の出現を待たねばならない。無名の詩人たちの残したこの19首の詩は、きわめて優れたものであり、五言詩の基を開いたものとして、後世に与えた影響は多大である。後漢末の建安年間(196~220)には、魏(ぎ)の曹操(そうそう)・曹植(そうしょく)父子を中心に多くの詩人が五言詩の時代の幕を開け、以後の六朝(りくちょう)時代350年は五言詩の全盛期となった。五言詩は、四言詩が表現が重々しく、淡々とした味わいであるのに対し、より複雑な感情をより流動的に歌うのに適し、修辞の面でも洗練の度を加えていった。六朝末に七言詩がおこり、やがて唐に入って五言詩と肩を並べるようになると、七言の華麗な趣(おもむき)に対し、五言は典雅な趣を特色とするようになる。唐のなかば、8世紀以後、律詩・絶句の近体詩と古体詩の形式が定まると、五言と七言とはともにそれぞれの形式を二分する形で、五言絶句・七言絶句、五言律詩・七言律詩、五言古詩・七言古詩の各体が固定し、後世へと受け継がれていった。
[石川忠久]
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…しかし,この形式すなわち〈辞〉は漢代に入ると〈賦(ふ)〉とよばれる長編の美文へと転化して,韻文と散文の中間的な性格をもつものとなり,伝統的なジャンルの区分においては〈詩〉のなかには入れられなくなった。 漢代になると,民間の歌謡のなかから〈五言〉の形式が知識人たちによって採り入れられて,〈五言詩〉が成立する。《文選(もんぜん)》に収められる作者不明の《古詩十九首》は,〈五言詩〉の最古のものに属する。…
…これら歌謡は文人の詩歌の源泉ともなって,彼らの情操を養った。
[五言詩]
五言詩が発生したときはまだ明らかでないが,後漢の末〈建安時代〉(196‐219)の文人たちはすでにこれを作っていた。〈古詩十九首〉は少しく先だち,民謡の歌詞に手を加えて成ったと思われる(古詩)。…
※「五言詩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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