中国古代の都市。河北省磁県付近に置かれた。斉の桓公によって築かれ,のち晋が奪ったが,晋が三分されると,魏の領土になった。西門豹(せいもんひよう)は鄴の令となり,漳水を引いてこの地を灌漑した。漢代には鄴県となり,魏郡の郡治であった。武帝が13州を置くと,魏郡は冀州(きしゆう)に属した。後漢末,袁紹(えんしよう)は冀州牧として独立の勢いを示すと,鄴の地に拠った。つづいて曹操が袁紹を倒してこの地を都とし,魏公から魏王へと進んだ。彼はこの地に銅雀台などの壮麗な建築物を築いた。魏の文帝は洛陽に都したが,鄴都と呼ばれて五都の一つに数えられていた。西晋の左思の三都賦に詠まれた魏都は鄴を指す。この地は晋代に臨漳と名を改め,五胡時代には石虎が都した。陸(りくかい)の《鄴中記》がその繁栄を伝える。ついで前燕もここを都とした。拓跋氏(たくばつし)が後魏を称するのも,この地を早くに占領したからであるし,東魏・北斉もここに都したが,北周によって徹底的に破壊されて廃墟に化した。
執筆者:狩野 直禎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、河北(かほく/ホーペイ)省南部、臨漳(りんしょう)県西方の地名。春秋時代に斉(せい)の桓公(かんこう)(在位前685~前643)がここに初めて城を築いたという。戦国時代には魏(ぎ)の支配下に入り、鄴令の西門豹(せいもんひょう)によって灌漑(かんがい)事業が推進された。その後、後漢(ごかん)末には群雄の袁紹(えんしょう)と彼を倒した曹操(そうそう)(155~220)が続けて鄴に拠(よ)ったが、とくに曹操の時代には大規模な都城が経営された。魏と西晋(せいしん)はともに洛陽(らくよう)に都を置いたが、五胡(ごこ)十六国時代には、後趙(こうちょう)の石虎(せきこ)、魏の冉閔(ぜんびん)、および前燕(ぜんえん)の慕容儁(ぼようしゅん)などがふたたび鄴を拠点とした。その後も北魏の分裂に伴い、東魏、続いて北斉が鄴を都として、長安に拠った西魏や北周と鋭く対峙(たいじ)したが、このころが鄴のもっとも繁栄した時期で、577年、北斉が北周に滅ぼされてからは都市としての機能を喪失していった。
[關尾史郎]
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…曹氏を皇帝とするので曹魏ともいう。後漢末の動乱期に,曹操が対立する群雄を倒して華北を平定し,213年(建安18),献帝から鄴(ぎよう)(河北省臨漳県)を中心とする魏国公に封ぜられたのが始まりで,3年後に魏王に進められたが,220年のはじめに死ぬ。後をついだ子の曹丕(そうひ)がその年の10月,献帝の禅譲を受けて帝位に昇り,ここに後漢は滅んで,同じく洛陽を首都とする魏国が正式に成立した。…
※「鄴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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