引村(読み)くしひきむら

日本歴史地名大系 「引村」の解説

引村
くしひきむら

[現在地名]八戸櫛引

八戸城下の南西に位置する。中心集落は北流する馬淵まべち川右岸に沿い、南方西方の丘陵地に支村が散在三戸さんのへ街道が北部を通過して、馬淵川を渡り、一日市ひといちには北の七崎ならさき方面に至る道の分岐点がある。北東は坂牛さかうし村、北は八幡やわた村・大仏だいぶつ村など、西は上野うわの村、苫米地とまべち(現三戸郡福地村)など、南は樺木かばき村・杉野沢すぎのさわ(現福地村)などに接する。

中世以来櫛引氏の拠点にあたり、櫛引城はその代々居城であった。同氏は南部光行の四男孫四郎宗朝を祖とする四戸氏の分れといわれるが(奥南旧指録)、天正一九年(一五九一)九戸の乱に際して九戸政実方に荷担し、滅亡した。当時の中心集落は櫛引城本丸の東側の丘陵地にあったとみられる。

藩政初期は盛岡藩に属する。雑書の正保二年(一六四五)四月二日条に「櫛引町屋敷弐拾六軒三月晦日丑刻焼亡之由」、翌三年三月二六日条に「櫛引町六拾壱軒今月廿四日午後焼亡」、寛文三年(一六六三)一一月一九日条に「去ル十五日之夜八ツ時分、櫛引町東かわ札ノ辻ヨリ十六間南ノ方仁右衛門と申者之所ヨリ火出、北ノ方御弁当屋・家数弐十軒焼候」とみえる。正保四年の南部領内総絵図には櫛引村、七四八石余とあり、同年の郷村帳によれば七四八・四八八石のうち四七五・四七石が田である。寛文四年八戸藩創設とともに同藩領に編入。元禄一〇年(一六九七)の郷村御内所高帳に櫛引通くしひきどおり村として高一四七四・一一二石、うち田八四八・六八一石とある。櫛引通村は櫛引・坂牛・樺木上野の四ヵ村からなり、櫛引は高一一〇六・六九四石、うち田七一九・〇三三石である。

御勘定所日記の明和四年(一七六七)三月二八日条に打直検地高として願高三八・五一四石、うち今高三四・六四七石、減高三・八六七石、野村彦惣預地願高七・六二三石、うち今高六・五〇三石、減高一・三石とある。


引村
くしひきむら

[現在地名]大宮市櫛引町・桜木町さくらぎちよう三橋みはし

大成おおなり村の西にあり、東を高沼こうぬま排水路、西をかも川で境する。集落は村の西寄りの台地上にあり、東部は高沼排水路の沖積低地。串引村とも記した(田園簿など)。慶長一九年(一六一四)旗本安藤正次領になり(「寛政重修諸家譜」など)、寛永二年(一六二五)七月父正次の遺領を継いだ安藤次右衛門尉(正珍)が、徳川氏から当村で一五〇石を宛行われた(記録御用所本古文書)。同二〇年安藤氏の検地があり(「風土記稿」など)、田園簿によれば田五一石余・畑九八石余、安藤領。幕末まで同家に伝えられ(国立史料館本元禄郷帳・改革組合取調書など)、寛政八年(一七九六)の足立郡村々高辻帳(都築家文書)では高二二七石余と大幅に増加しているが、理由は未詳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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