弘前城跡(読み)ひろさきじようあと

日本歴史地名大系 「弘前城跡」の解説

弘前城跡
ひろさきじようあと

[現在地名]弘前市下白銀町

西に岩木川、東に土淵つちぶち川を配し、西側から南にかけては急崖をなし、東方面が緩やかな傾斜をなす細長い洪積台地上にある。平山城で、山鹿素行の「武教全書」に説く築城法にかなうといわれる(津軽弘前城史)。城地の選定に際して、ほかに亀ヶ岡かめがおか(現西津軽郡木造町)長勝寺構ちようしようじがまえの二ヵ所が候補としてあげられ、卜占によって当地にしたという(「封内事実秘苑」市立弘前図書館蔵)。当時弘前は高岡たかおか鷹ヶ岡たかがおかともよばれ、それ以前は二ッ石ふたっいしともよばれていたが(津軽一統志)、寛永五年(一六二八)八月に弘前と改称した(「信枚君一代之自記」国立史料館蔵)。しかし弘前の名称が一般的に使用されるのは、正保―慶安(一六四四―五二)にかけてである。

慶長八年(一六〇三)藩祖津軽為信が高岡の地に町屋派立を命じ、同一一年には町家が建ったといわれる(「津軽編覧日記」八木橋文庫蔵)。しかし為信が同一二年死去したため、築城にまでは至らなかった。同一五年二代藩主津軽信枚は弘前に築城を決め、幕府検使松原左衛門・正木藤右衛門の見分も済ませ、郡中の人夫を割付け、東海吉兵衛に縄張りを実施させた。このほか奉行を宮館文左衛門、竿奉行を谷口仁兵衛、築方・石垣の担当を伊東六右衛門・服部孫助に命じ、同年三月五日を斧始と定め、江戸から大工数百人をよんで築城を開始した(封内事実秘苑)。石垣に使用する石材は、長勝寺西南の石森いしもりや、兼平かねひら山、在方の大光寺だいこうじ(現南津軽郡平賀町)浅瀬石あせいし・黒石(現黒石市)などの古館から運搬した。天守や櫓に必要な鉄は、外ヶ浜そとがはま小国おぐに蟹田かにた(現東津軽郡蟹田町)で南部領の鉄吹職人一三〇人をよんで製鉄させたという(津軽一統志)。翌一六年五月城がほぼ完成し、堀越ほりこしや在方から寺社・家臣団・工商人を移転させた。それらの屋敷建設のための普請材木を碇ヶ関いかりがせき(現南津軽郡碇ヶ関村)からひら川へ流して運んだため、蔵館くらだて山や石川いしかわ近辺の山は伐採され尽したという(封内事実秘苑)

建築当初の城内は「御本城・二之御丸・三之御丸・西之御郭・袰町諸士屋敷割有」(同書)とある。「奥富士物語」には「三之御丸に白銀丁・大浦町抔有之、中身已上之面々居住と云、其比北四ノ郭を号袰町ト、大小身之面々住居、且、関権次郎武茂、昔袰町ニ御家中家ハ十六軒有之よし」とあり、城内の三、四の郭に家臣団の屋敷町があった。

築城なって二〇年もたたない寛永四年九月五日、落雷によって天守に火災が生じ、数百石の焔硝に釣鐘が落下して大爆発を起こした(封内事実秘苑)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「弘前城跡」の解説

ひろさきじょうあと【弘前城跡】


津軽氏城跡(つがるししろあと)

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