日本歴史地名大系 「弘前城跡」の解説
弘前城跡
ひろさきじようあと
西に岩木川、東に
慶長八年(一六〇三)藩祖津軽為信が高岡の地に町屋派立を命じ、同一一年には町家が建ったといわれる(「津軽編覧日記」八木橋文庫蔵)。しかし為信が同一二年死去したため、築城にまでは至らなかった。同一五年二代藩主津軽信枚は弘前に築城を決め、幕府検使松原左衛門・正木藤右衛門の見分も済ませ、郡中の人夫を割付け、東海吉兵衛に縄張りを実施させた。このほか奉行を宮館文左衛門、竿奉行を谷口仁兵衛、築方・石垣の担当を伊東六右衛門・服部孫助に命じ、同年三月五日を斧始と定め、江戸から大工数百人をよんで築城を開始した(封内事実秘苑)。石垣に使用する石材は、長勝寺西南の
建築当初の城内は「御本城・二之御丸・三之御丸・西之御郭・袰町諸士屋敷割有」(同書)とある。「奥富士物語」には「三之御丸に白銀丁・大浦町抔有之、中身已上之面々居住と云、其比北四ノ郭を号袰町ト、大小身之面々住居、且、関権次郎武茂、昔袰町ニ御家中家ハ十六軒有之よし」とあり、城内の三、四の郭に家臣団の屋敷町があった。
築城なって二〇年もたたない寛永四年九月五日、落雷によって天守に火災が生じ、数百石の焔硝に釣鐘が落下して大爆発を起こした(封内事実秘苑)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報