1959年8月に開催された中国共産党第8期第8回中央委員会の別称。開催地の江西省の廬山にちなむ。同会議は1958年の生産統計を大幅に下方修正したこと,ひき続き大躍進政策を継続することを決定したことのほかに,国防大臣彭徳懐(ほうとくかい)ほかを反党グループとして解任した。彭徳懐解任の意義は2点にある。第1点はソ連との関係をどのように位置づけるかという点であり,第2点は大躍進政策の評価をめぐる問題である。
中国がソ連の軍事力依存につき疑問を持ちはじめたのが1958年前半だとみられる。同年8月,フルシチョフは訪中した。彼はソ連指揮下の中ソ共同艦隊案を提案した。この提案にどのように対処するかをめぐって,中共内部で亀裂が発生した。1959年4月から2ヵ月にわたり,彭徳懐は団長として,ソ連・東欧を訪問。一説によると,ソ連との軍事対立に入ることを避けようとする最後の努力であったといわれる。ソ連は同年6月,原子爆弾のサンプル供与を規定した軍事協定を破棄した。毛沢東の軍事対立をも辞さない方針と,決裂を避けようとする彭徳懐の方針の差は,結局,ソ連をどうみるかの相違に帰着する。
第2点は大躍進・人民公社政策をめぐる毛沢東と彭徳懐との見解の相違である。彭徳懐は大躍進政策はプチブル的熱狂性を示すものと考え,毛沢東に修正の意見書を提出した。外国ではフルシチョフが人民公社化を批判していた。同政策の最大の推進者毛沢東は国内外で連携して批判してきていると受けとったにちがいない。彭徳懐解任以後,大躍進政策は失敗するが,1966年の文化大革命運動の中で再生した。文革終焉ののち,鄧小平の勢力がしだいに台頭する中で,78年12月彭徳懐の名誉回復が行われた。それが劉少奇の名誉回復の糸口をつけ,文化大革命の全面的否定につながった。さらに,81年6月には,大躍進以後の毛沢東の晩年の指導方針を部分的に否定するにいたった。
執筆者:小島 麗逸
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中国江西省北端の名山である廬山で開かれた会議の総称をさす。1927年南京,武漢両政府の合体が討議されて以来,しばしば重要な会議が開かれてきたが,なかでも59年の中国共産党中央政治局拡大会議がここで開かれたのが特に有名である。この会議では毛沢東の大躍進政策の是非が検討された。同郷の国防部長彭徳懐(ほうとくかい)は毛沢東宛の書簡で,その経済のバランスを欠いた政治優先政策を批判し,毛に政策の転換を迫った。のち毛は彼を支持するグループを「右翼日和見(ひよりみ)主義反党集団」として批判した。その結果,参加者のなかで公然と毛沢東に反対するものがいなくなり,彭徳懐のみならず張聞天(ちょうぶんてん)や黄克誠(こうこくせい)も失脚することになった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…組織化を急ぎすぎた人民公社は,杜撰(ずさん)な管理や命令主義のため,生産意欲が極度に低下した。こうした失政を批判した彭徳懐(ほうとくかい)は,毛沢東によって反党分子とされ,国防部長の地位を追われるが(1959年8月,廬山会議),現実は,政治決議によって変えることはできない。くわえて,59年からは3年連続の記録的な自然災害に見舞われ,そこへ,中ソ対立によるソ連の技術援助全面打ち切り(1960年7月)が追打ちをかけ,ついに大量の餓死者(1000万人以上と推定する説もある)を出すにいたった。…
…国共内戦期には東北に派遣され,東北局常務委員,東北財経委員会副主任をつとめた。解放後は51年駐ソ大使,55年外交部副部長(次官)となったが,59年彭徳懐らとともに廬山会議で大躍進政策を批判して失脚。文化大革命期には反党分子として迫害されたが,78年名誉回復された。…
※「廬山会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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