大躍進 (だいやくしん)
Dà yuè jìn
中国における社会主義建設に関して,1956年の小躍進に対して,58年から60年前半期までに行われた大々的な建設運動をいう。57年秋,河南省で活発な水利建設運動が始まり,またたくまに全国に広まり,水利建設,植林,肥料造りなどに農村労働力の70~80%が動員された。この建設運動は,都市,工業,社会制度,党の路線にまで影響を与えた。党の路線については〈2本足〉の方針,すなわち工業も農業も,大都市も中小都市も,大工場も中小工場も,先進技術も在来技術も,いずれをも発展させてゆこうという方針が採択された。社会制度における顕著な変化は人民公社化である。それまでは,農村組織はソ連のコルホーズ型の高級合作社を主とする考えであった。これは200~300戸の農家が集まった経済経営体で,政治権力はなかった。人民公社は,規模を10余倍にしたのみならず,政治権力と合体した農村組織となった。また,人民公社は農村工業化を推進する組織ともなった。社会主義建設過程では,一般に農村の手工業はつぶれていく。これに対し,あえて農村工業化を推進しようとした。農村工業化を推進すれば,必然的に,外国先端技術の導入ばかりに眼を向けておられなくなり一方でだれでも操作できる在来技術を重視する動きがあらわれた。これを土法技術と呼ぶ。もう一点,大躍進期で重要なのは婦人の家庭からの解放,社会的労働への参加である。一時期,農村ではほぼ100%近い婦人が,社会的労働に参加していた。
大躍進政策は,それまでのソ連型社会主義の諸政策が重工業優先政策を中核としたエリート集団による社会建設方式であるのに対し,大衆路線を採ったところに特徴がある。のちの文化大革命は大躍進政策の継承と発展である。1978年12月以後の政権はこの政策に否定的である。
執筆者:小島 麗逸
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大躍進
だいやくしん
「毛沢東(もうたくとう)思想」に基づく中国の急進的な社会主義建設の試み。1958年後半の中国が社会主義建設の総路線、大躍進、人民公社という国内建設の三つの目標を同時に遂行しようとして掲げた「三面紅旗」のスローガンによっても知られている。
この政策は、「衆人こぞって薪(たきぎ)をくべれば炎も高し」という諺(ことわざ)を引いて推進されたとおり、そして当時「15年でイギリスに追い付き追い越せ」という国家目標が提示されたことにもみられるように、経済的に立ち後れている中国であっても、労働力(人間資本)の大量投入による人海戦術的な方式をとれば、生産力は急速に発展し、生産は飛躍的に増大する、というものであった。こうして「大いに意気込み、つねに高い目標を目ざし、より多く、より早く、より経済的に社会主義を建設する」という「社会主義建設の総路線」が精神的原則として提起され、1958年夏に出現した人民公社が農村における大躍進政策の実行単位として組織化された。この政策は熱狂的な大衆運動として展開され、短期間のうちに次々と生産目標が高められた。しかし農業生産力の客観的な限界を無視した政策の結果、中国農村は荒廃の極に達してしまった。
大躍進政策のひずみは、1959年8月の中国共産党八期八中全会(廬山(ろざん)会議)での彭徳懐(ほうとくかい)らによる毛沢東批判を招来し、毛自身もこの政策失敗の責任上、国家主席を辞任して政治の第一線から暫時引き下がらざるをえなくなった。後の文化大革命による毛の権力奪回への伏線もここにあったのである。
[中嶋嶺雄]
『中嶋嶺雄著『現代中国論――イデオロギーと政治の内的考察』増補版(1971・青木書店)』
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大躍進
だいやくしん
中国で 1958年から始まる第2次5ヵ年計画の初年度に行なわれた政策。1958年毛沢東国家主席によって提起された社会主義建設の総路線の主導のもと,いわゆる経済の「大躍進」と人民公社設立の全国的な大衆運動が展開された。総路線,大躍進,人民公社という経済政策,方針を称して「三面紅旗」と象徴的に呼ばれた。1958年の大躍進は自然条件にも恵まれ,高揚した全国的大衆運動のなかで,農工業生産の大幅な増産が達成された。象徴的なのが鉄鋼生産運動で,土法(在来の方法,技術)により全国的に高炉が建設され,多くの人間が動員された。しかし,製品の質が悪く,そのうえ,工業と農業,工業でも鉄鋼と他部門とのバランスが崩れるという結果を招くことになった。この間,彭徳懐による批判(→廬山会議)など党内闘争もあり,加えて自然災害,ソビエト連邦との経済断交,政策運営上の誤りなどによって経済的にも破綻をきたし,大躍進は途中で挫折した。その後文化大革命によって一時再生したが,いわゆる四人組失脚後,無謀な試みとして否定された。
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大躍進(だいやくしん)
1958年から毛沢東により開始された中国の急進的な農工業の同時増産運動。この過程で農村に人民公社が誕生し,全国に伝播した。本来58年からは第2次五カ年計画が予定されていたが,第1次五カ年計画で確立された「進んだ」社会主義体制と「遅れた」生産力の矛盾を解消するため,毛沢東は人間資本と精神主義にもとづく生産増強運動を発動した。土法高炉(どほうこうろ)と呼ばれる非科学的な鉄鋼増産や無謀な農業増産を計画したが,最終的には自然災害や中ソ対立によるソ連人技術者の引き揚げなども加わって,大躍進は未曾有の経済困難を招来し,約2000万人といわれる餓死者を生み出すに至った。その結果,60年代初頭の数年間は経済調整を余儀なくされた。しかし問題が顕在化した59年夏の廬山(ろざん)会議において,大躍進を批判した彭徳懐(ほうとくかい)国防相は毛沢東の怒りを買って解任され,それ以後大躍進に対する直接的な批判は御法度となった。大躍進と経済調整の評価をめぐって党内に政策意見の分岐が起こり,それがその後の文化大革命の伏線となる。
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大躍進【だいやくしん】
中華人民共和国が1958年から1960年前半期にかけて推進した社会主義国家建設のスローガンの一つ。生産大躍進として人民公社革命・社会主義建設総路線と並び〈三面紅旗〉の一つをなす。第1次五ヵ年計画終結に続く人民共和国10年目の新路線。天災などの苦難に当面したが,その克服の過程で文化大革命の要因が発生した。
→関連項目張聞天|陳雲|彭徳懐
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大躍進
だいやくしん
中華人民共和国の第2次五か年計画(1958〜62)で目標とされた,工業・農業の飛躍的発展をめざす政策・スローガン
中国は,人民公社を中心に中国型共産主義社会の建設をめざした。しかし,1959年からの自然災害,ソ連の技術協定破棄,無理な計画が重なり,経済は混乱し,1500〜2000万におよぶ餓死者を出して失敗した。このため毛沢東 (もうたくとう) は国家主席を辞し,劉少奇 (りゆうしようき) らが経済の調整政策をとることとなった。
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世界大百科事典(旧版)内の大躍進の言及
【中華人民共和国】より
…8全大会の重工業中心論に対して,毛沢東は[農業基礎論]を対置した。8全大会の穏歩前進路線に対して,毛沢東は〈[大躍進]〉路線を対置した。8全大会の科学技術近代化論に対して,毛沢東は〈土法〉を対置した。…
※「大躍進」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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