徳丹城(読み)とくたんじょう

改訂新版 世界大百科事典 「徳丹城」の意味・わかりやすい解説

徳丹城 (とくたんじょう)

日本古代城柵。〈とくたんのき〉ともいう。史料上の初見は814年(弘仁5)である。803年(延暦22)に造られた志波(しわ)城はたびたび水害をこうむるので,便地に移したい旨の願が811年に出され,それが許可されているが,徳丹城は,その志波城後身と考えられている。岩手県紫波郡矢巾町徳田にその遺跡があり,北上川沿いの低平な自然堤防上に立地している。規模は一辺約350mのほぼ方形である。外郭線の構造は丸太材を立てならべたものであり,各辺の中央には八脚門が,またところどころにやぐらが設けられている。中央部には政庁ともいうべき内郭がある。その中心部には正殿があり,前方左右には南北棟の東西両脇殿が配されている。内郭の周囲は掘立柱列(柵)がとりかこみ,正面には4脚の門が開く。律令政府による柵,城としては最後のものである。
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日本の城がわかる事典 「徳丹城」の解説

とくたんじょう【徳丹城】

岩手県紫波(しわ)郡矢巾(やはば)町にあった平安時代の城柵。国指定史跡。803年(延暦22)に、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)により、これよりやや北に造営された志波城(盛岡市)が雫石川氾濫で大きな被害を受けたため、田村麻呂の後任の征夷大将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)の建議により、志波城より約10km南の当地に新たな城柵として建設することが決まり、志波城を解体・移築して811年(弘仁2)に完成した。徳丹城の外郭は約350m四方と志波城よりも規模は小さいが、官衙の建物群の跡も残り、志波城の政治機能がそっくり引き継がれたことを物語っている。現在は史跡公園として整備され、公園内には矢巾町歴史民俗資料館、南部曲り家なども併設されている。JR東北本線矢幅駅から車で約5分。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「徳丹城」の意味・わかりやすい解説

徳丹城
とくたんじょう

古代陸奥(むつ)国における蝦夷(えぞ)経営最後の城柵。803年(延暦22)坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が造城使となって志波(しわ)城(盛岡市太田)を建てたが、811年(弘仁2)、水害を避けるため近くの便宜の地に城を移すことになった。その移建後の志波城が徳丹城と考えられ、814年(弘仁5)に初見する。位置は岩手県紫波(しわ)郡矢巾(やはば)町徳田と考えられ、1辺350メートル方形の柵(さく)列が確認されている。

高橋富雄


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「徳丹城」の意味・わかりやすい解説

徳丹城
とくたんじょう

古代,蝦夷征討のために構築された城柵 (→ ) 。弘仁2 (811) 年征夷大将軍文室 (ふんや) 綿麻呂の建議によって築かれたと思われる。場所は,岩手県紫波郡矢巾町徳田が比定されている。

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