恩納村
おんなそん
面積:五〇・七二平方キロ
沖縄島のほぼ中央部西海岸側に位置し、北東から東は名護市・宜野座村・金武町・石川市、南は沖縄市・中頭郡読谷村に接し、西から北は東シナ海に面する。地形は南北約二七キロ、東西約四キロと細長い。東境は漢那岳・熱田岳・ブート岳・恩納岳・屋嘉岳・石川岳といった山山が連なり、ほとんどの集落は海岸沿いを南北に走る近世の宿道・西海道を受継ぐ国道五八号沿いに点在している。また仲泊からは東海岸側の石川市と結ぶ県道六号線、同七三号線、恩納から金武町屋嘉と結ぶ県道八八号線、安富祖から喜瀬武原を通って金武町と結ぶ県道一〇四号線が東西に走っている。地質は中生代の粘板岩や砂岩などの名護層と嘉陽層といわれる地質で占められ、その上には国頭礫層が海岸付近の山地に分布する。東の山間部に発する小さな川は四〇近くあり、小川の注ぐ東シナ海にはサンゴ礁が発達している。村内の遺跡は久良波貝塚・仲泊遺跡・美留貝塚・塩屋貝塚・安幸地原貝塚・谷茶貝塚・志喜根貝塚・熱田貝塚・伊武部貝塚など一三ヵ所が確認されている。グスクは山田グスク・恩納グスクを含め五ヵ所が確認されており、山田グスクは山田按司護佐丸が座喜味グスクに移る以前の居城として知られる。
明治五年(一八七二)琉球藩、同一二年沖縄県の管轄下となり、一八九六年国頭郡に所属。一八八二年恩納間切番所内に恩納小学校が創設された。
恩納村
うんなむら
[現在地名]恩納村恩納
初め国頭方金武間切のうち。康熙一二年(一六七三)恩納間切の創設により、恩納間切に所属。同間切のほぼ中央に位置し、北から北西は東シナ海に面し、北東は瀬良垣村、南西は谷茶村、南東は恩納岳を隔てて金武間切伊芸村(現金武町)に接する。「おもろさうし」巻一四の六に「一 おんなやちきまよ(恩納のヤチキマ〔人名〕よ)/あふそやちきまよ(安富祖のヤチキマよ)/おもひはのきもちやさ(思うと気の毒だ)/又 あわのおやのもすめ(安和の親の娘)/きもちやおやのもすめ(肝痛親の娘)/又 やまこまて みつき(山籠って三月)/たけこまて みつき(嶽に籠って三月)/又 かちやも せゝられて(蚊に刺されて)/ぬかこ せゝられて(糠子〔蚊〕に刺されて)」とある。地方の下役人を「おや」といっているので、ここの「おや」も親子の親ではないかもしれない。絵図郷村帳では金武間切のうちに「おんな村」とみえる。琉球国高究帳でも同間切で「恩納村」とみえ、高頭二二八石余、うち田一七九石余・畠四九石余。「琉球国由来記」では恩納間切のうちに村名がみえる。「喜安日記」によれば、慶長一四年(一六〇九)今帰仁(現今帰仁村)に薩摩鹿児島藩の兵船が着いたとの報を受け、王府の使節は三月二六日の午前八時頃首里を立って一二時頃倉波(山田村久良波)に着き、ここで海士の小舟に乗換え、その日のうちに恩納に着き、翌早朝に恩納を出発し今帰仁に着いている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 