惣持寺跡(読み)そうじじあと

日本歴史地名大系 「惣持寺跡」の解説

惣持寺跡
そうじじあと

[現在地名]三郷町勢野東六丁目

大和川北岸の丘陵にあった寺。総持そうじ寺とも書き、いまは鎮守春日神社と子院の真言律宗持聖じせい院・融通念仏宗養福ようふく寺を残し、神社上方一針ひとはり薬師笠石仏がある。持聖院蔵の和州平群郡補陀洛山惣持寺縁起の奥書に「建保二甲戌年十月十八日、記之、延宝八年庚申件冬下旬依和州惣持寺持聖院真証法印之所望馳愚筆記 仁和寺真乗院 権僧正孝源」、「三輪上人行状」に「請法性寺安阿弥陀仏、如法如説、造薬師像、和州信貴山麓、興隆小伽藍、号総持寺」とみえ、「帝王編年記」永仁六年(一二九八)四月一〇日条に、奈良西大寺以下三〇余ヵ寺が関東将軍家(後深草院皇子一品久明親王)の祈祷寺とされたことを記すが、そのなかに惣持寺の名もみえ、「神奈備山」の注がある。


惣持寺跡
そうじじあと

[現在地名]寒河江市丸内二丁目

明治三年(一八七〇)まで寒河江城二の丸跡の北東隅にあった真言宗寺院。三光山と号し、本尊不動明王。当寺は大江氏の祈願寺として一四世紀後半に建立されたものと推定され、奥書に天正四年(一五七六)写とある寒河江城絵図(大沼家蔵)をみると、城の鬼門にあたる位置に所在している。江戸時代には京都智積ちしやく院を本寺とし、新義一派の触頭職江戸本所ほんじよ弥勒寺(現東京都墨田区)の支配下にあったが、当寺も多くの末寺門徒寺を有し、天明六年(一七八六)の楯北村惣持寺本末帳(惣持寺文書)には末寺九ヵ寺と門徒一七ヵ寺、社人二、潰寺三ヵ寺が記載されている。


惣持寺跡
そうじじあと

[現在地名]河内長野市高向

石川西岸に広がる河岸段丘上にあった寺院跡。付近にソウジン池があり、江戸時代中期の墓碑が数基残る以外まったく痕跡をとどめないが、昭和初期に整地作業中、石製容器に納められた輪宝・木製などが検出された。これらはいずれも密教法具で、出土状況・伝承などから当寺の創建時の地鎮具として用いられたものと考えられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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