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懿徳太子墓 いとくたいしぼYì dé tài zǐ mù

世界大百科事典 第2版の解説

いとくたいしぼ【懿徳太子墓 Yì dé tài zǐ mù】

懿徳太子,李重潤は唐中宗の長子であり,高宗の乾陵の南東にその墓がある。墓は方形で,南北56.7m,東西55m,高さ17.92mをはかり,土闕の南に石の獅子,石人,石の華表がたてられている。墓の内部は墓道,前室および石槨のある後室よりなる。唐三彩の人馬の明器が多く発見されたほか,特に40幅をかぞえる壁画は重要である。壁画には墓道西壁の闕楼の図や,馬球(ポロ)をうつ図,また男女の群像がある。李重潤は19歳で罪を構えられて則天武后の命により杖殺されたが,その後706年(神竜2)中宗によって改葬された。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

懿徳太子墓
いとくたいしぼ

中国、陝西(せんせい/シャンシー)省乾(けん)県にある乾陵(けんりょう)陪葬墓の一つ。被葬者は唐の4代皇帝中宗李顕(りけん)の長子李重潤(りじゅうじゅん)(682―701)で、3代高宗李治(りじ)と則天武后は祖父母にあたる。701年19歳の李重潤は武后の怒りを買って死を賜ったが、706年に懿徳太子を追贈され、墓も洛陽(らくよう)から現在地へ移された。墓は方形台状の墳丘を有し、地下には墓道、過洞、天井(てんせい)、甬道(ようどう)、小龕(しょうがん)、前室、後室からなる、全長100.8メートルの(せん)積みの施設が構築されていた。また、墓道入口には、土闕(どけつ)、石獅子(しし)、石人、華表(かひょう)が配置されていた。1971年に発掘調査され、唐三彩、各種金属製品など1000余点の出土品を発見したが、なかでも墓道から墓室に至る地下施設の壁面に描かれた彩色画は、もっとも重要な発見であった。画題は、闕楼(けつろう)、儀仗(ぎじょう)、戟架(げきか)、侍女などで、墓室の平面設計が皇帝の後宮を模していることとともに、懿徳太子墓が「墓を号して陵となす」という制度に基づいて築かれたものであったことがわかる。[田辺昭三]

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