日本大百科全書(ニッポニカ) 「懿徳太子墓」の意味・わかりやすい解説
懿徳太子墓
いとくたいしぼ
中国、陝西(せんせい/シャンシー)省乾(けん)県にある乾陵(けんりょう)陪葬墓の一つ。被葬者は唐の4代皇帝中宗李顕(りけん)の長子李重潤(りじゅうじゅん)(682―701)で、3代高宗李治(りじ)と則天武后は祖父母にあたる。701年19歳の李重潤は武后の怒りを買って死を賜ったが、706年に懿徳太子を追贈され、墓も洛陽(らくよう)から現在地へ移された。墓は方形台状の墳丘を有し、地下には墓道、過洞、天井(てんせい)、甬道(ようどう)、小龕(しょうがん)、前室、後室からなる、全長100.8メートルの塼(せん)積みの施設が構築されていた。また、墓道入口には、土闕(どけつ)、石獅子(しし)、石人、華表(かひょう)が配置されていた。1971年に発掘調査され、唐三彩、各種金属製品など1000余点の出土品を発見したが、なかでも墓道から墓室に至る地下施設の壁面に描かれた彩色画は、もっとも重要な発見であった。画題は、闕楼(けつろう)、儀仗(ぎじょう)、戟架(げきか)、侍女などで、墓室の平面設計が皇帝の後宮を模していることとともに、懿徳太子墓が「墓を号して陵となす」という制度に基づいて築かれたものであったことがわかる。
[田辺昭三]