中国、唐朝第3代高宗の皇后で、のち自ら周朝を建てる(在位690~705)。生年は一説に630年ころともいう。本名照、山西省の大材木商で唐朝の創業に貢献し栄進した武士(ぶしかく)の娘。美貌(びぼう)で14歳のとき太宗の後宮に入り、帝の死後尼となっていたところを高宗(李治(りち))にみいだされ、寵(ちょう)を得たと伝えられる。姦計(かんけい)を用いて皇后王氏らを陥れ、655年自ら皇后に成り上がる。この立后には元勲長孫無忌(ちょうそんむき)一派とそれに対抗する官僚グループの対立が絡んでいたが、彼女は文芸と吏務に長じた新興官僚を巧みに登用操縦して旧貴族層を排斥した。数年ののちに高宗が健康を害すると、自ら政務を親裁し独裁権力を振るうに至った。683年高宗が病没すると、自分の子中宗・睿宗(えいそう)を次々と帝位につけ、彼女に反抗して挙兵した李敬業や唐の皇族らを武力で打倒し、同族を重用した。さらに御史や隠密(おんみつ)を使って大規模な弾圧を行い、政権強化に努めた。一方、女徳をたたえる仏経を偽作し、また符瑞(ふずい)を利用して武氏の天下を宣伝し、ついに690年国号を周と改め、自ら皇帝を称し、中国史上唯一の女帝となり約15年全国を支配した。
周の伝統に従って暦法、官名などを改正し、また十数個の新字(則天文字。圀=国、=日、○=星、=人、=照など)を使わせるなど人心一新を図った。治世には、北門学士らに命じ、『臣軌(しんき)』『百寮新誡(ひゃくりょうしんかい)』以下多数の修撰(しゅうせん)を行い、また臨時の使者を各地に派遣して人材の吸収に努め、さらに人気取りに官爵をばらまき、また明堂、天枢、大仏のような大建築をおこし、国威宣揚に努めた。狄仁傑(てきじんけつ)、魏元忠(ぎげんちゅう)ら名臣をよく用いたが、末期には張易之(えきし)兄弟ら寵臣が政治を乱し、ついに705年張柬之(かんし)らのクーデターにより、中宗の復位と唐の再興をみた。のちまもなく高齢で病死した。
彼女は悪辣(あくらつ)な策略や残酷な弾圧に加えて、陽道壮偉(巨根)の男を求め、妖僧(ようそう)薛懐義(せつかいぎ)や張易之兄弟との醜聞を残すなど、非難の的となる反面、自ら書をよくし、学芸を庇護(ひご)するとともに、有能な人材を抜擢(ばってき)して新興階層を受け入れ、政治、社会、文化の各方面にわたり新機運をもたらした点は、高く評価される。死後、夫高宗と長安の北西乾(けん)県にある梁(りょう)山の乾陵に合葬された。ここにはみごとな石彫天馬や夷酋(いしゅう)列像(首を欠く)など当代文物をとどめ、周辺に壁画で名高い永泰公主墓など陪冢(ばいちょう)も多く、文物保管所ができている。彼女をテーマとする林語堂(りんごどう)の小説や郭沫若(かくまつじゃく)、田漢の戯曲など作品も多く、その希代の女傑ぶりはいまなお語りぐさとなっている。
[池田 温]
『原百代著『武則天』全8巻(講談社文庫)』▽『外山軍治著『則天武后』(中公新書)』
中国,唐の高宗の皇后であったが,高宗の死後,唐に代わって周朝(武周)を建てた。在位690-705年。姓は武氏,諱(いみな)は曌(曌は武后が作った照の新字)。武則天ともいう。幷州文水(山西省汾陽県)の人。父の武士彠(ぶしかく)は木材業で富をきずき,隋末に府兵の隊正を務め,李淵(唐高祖)の挙兵に参加した功績で利州(四川省広元県)都督を授けられた。今の広元県にある皇沢寺が武照の生地であるとされる。美貌の誉れ高く,14歳のとき太宗の後宮に入り,太宗の没後,感業寺で尼となっていたのを高宗が見つけ出して後宮に入れた。時あたかも高宗の皇后王氏と淑妃の蕭氏とが寵を争い,高宗の寵愛を維持しようとあせる王氏が,武氏を昭儀に引き上げたが,武氏は表面よく王氏に仕えながら高宗の寵を独占し,策略を張りめぐらして王氏と蕭氏とを失脚させてしまった。武氏は,長孫無忌を中心とする外戚勢力の反対を押しきり,反長孫無忌派の官僚や門閥的背景のない新官僚を懐柔し,彼らの支持を背景に,皇后に冊立させることに成功した。655年(永徽6)のことである。長孫無忌らは左遷され,ついで殺された。
武后の勢力が着々と伸張していく一方で,もともと病弱だった高宗の健康状態が悪化した。660年(顕慶5)の年末,武后が万機を決裁するにいたり,ここに事実上の武后執政が始まった。武后は自分の力を誇示するように,諸事の変更を好み,ひんぴんと改元を行い,662年(竜朔2)には主要な官庁と官職の名称をすべて改めた。さすがの高宗も武氏の立后を後悔し,664年(麟徳1)の年末に廃立を断行しようとしたが,失敗に終わった。674年(上元1)8月には,皇帝を天皇と称し,皇后を天后と称することを宣し,その年末には12条からなる独自の政治方針を発表した。また周囲に文学の才ある知識人,元万頃,劉禕之ら(北門学士)を集め,《列女伝》《臣軌》などを編集させ,政治にも参画させた。武后は書家としても優れていて,《昇仙太子之碑》の飛白の額はとくに有名である。683年の年末に高宗が亡くなって中宗が即位したが,まもなく廃され,ついで弟の睿宗が即位したが,名目だけで,武太后が全権を掌握した。密告制度を奨励し,酷吏を利用して恐怖政治を行い,また則天文字とよばれる新しい文字を制定したり,《大雲経》という仏典に付会した文章をつくったりしたあげく,690年(天授1)にみずから皇帝の位につき,国号を周と改め聖神皇帝と称した。
女性の皇帝は,中国史において空前絶後である。両京および諸州に大雲経寺を設けたりしたが,このいわゆる武周革命によって成立した周朝は,わずか15年で瓦解する。武周政権は彼女一代で幕を閉じ,中宗の復位によって唐朝が復活する。病床の身で幽閉された武后は間もなく亡くなった。中宗の皇后韋氏(?-710)はかつての武后のごとき存在となり,後世,この2人は政治を乱したとし〈武韋の禍〉と非難されることが多かった。武后は死後,高宗とともに乾陵に合葬された。
執筆者:礪波 護
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624/628~705(在位690~705)
唐の高宗の皇后で,一時天下を奪った女傑。初め太宗の後宮にあり,太宗死後尼となっていたのを高宗に召され,皇后王氏を失脚させて655年皇后となり,反対派を除き,高宗が病むと独裁権力を握った。683年高宗死後子の中宗,睿宗(えいそう)を廃立し,李敬業(りけいぎょう)の反乱があってから,密告政治によって反対派の弾圧を強化し,690年国号を周(690~705,通称武周)と称して即位した。武后の革命は唐初の大貴族に不満だった中小官僚,新興地主の支持で成功し,新興階級の政治への登場を促した。また仏教を保護し,多くの著述を行った。
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…京兆万年(陝西省西安)の人。いったんは皇后となり,翌年に中宗が則天武后によって房州に流された際も苦労をともにした。20年後の705年(神竜1),中宗の復位によって皇后に復活するや,高宗における武后のごとくふるまい,武三思(?‐707)と私通し,売官によって富商などを官に任じた。…
…このとき唐朝は安定と繁栄を見たので,〈開元の治〉といい,太宗の〈貞観(じようがん)の治〉に擬せられる。玄宗李隆基は2度にわたるクーデタによって韋后と太平公主(則天武后の娘)の勢力を一掃し,712年(先天1)帝位についた。以後姚崇,宋璟らの名臣を用いて政権の公的性格を回復することにつとめた。…
…皇帝が幼少で,皇太后が摂政になったとき,あるいは皇帝が暗愚で,皇后の力が強いとき,そのような現象がおこりやすい。漢の高祖劉邦の死後,呂(りよ)太后が若年の恵帝をさしおいて国政を動かし,呂氏一族とともに天下を奪いとろうとしたことや,唐の高宗の皇后則天武后がついに唐の国家を奪って国号を周と改めたことなどは,外戚による簒奪というよりも,むしろ皇后ないし皇太后自身による政変というべきだが,もとより外戚による簒奪の例も存在する。前漢元帝の皇后王氏の一族であった王莽(おうもう)が,漢を奪って新という国を建てた例や,北周宣帝の皇后の父楊堅が,北周を滅ぼして隋王朝を建て,隋の文帝と称されることになった例などがそれである。…
…中国の唐代に,則天武后が建てた王朝。他の同名の王朝と区別して〈武周〉ともいう。…
…それは羈縻関係よりもゆるやかな関係であるが,唐への朝貢の義務を負う臣属関係なのである。
[武周革命と開元の治]
高宗は,在位6年目の655年(永徽6),高句麗討伐を再開したまさにその年の10月に,皇后の王氏を廃して昭儀の武氏を皇后に冊立する詔を出し,ここに則天武后の政権掌握への道が開かれた。武氏が皇后になったということは,南北朝時代以来の貴族社会の変質過程において画期的な意味をもつものであった。…
…中国で,690年に唐の睿宗(えいそう)の生母である太后の武氏(則天武后)が,皇帝となって国号を周と改め,唐朝を中断させたことをいう。病弱の高宗に代わって政務を決裁してきた武后は,朝廷における実権を掌握してしまい,683年(弘道1)に高宗が亡くなると,武后の子である太子哲が即位して中宗となったが2ヵ月たらずで廃され,つぎに立った睿宗もまったくの傀儡(かいらい)にすぎなかった。…
…同じ年に陝西の扶風では,沙門の向海明が,帰心すれば吉夢(よいゆめ)を得られるとして人々を惑わし,乱を起こしてみずから皇帝と称し,年号も新たに立て数万が蜂起したが,鎮圧された。また,反乱ではないが,弥勒信仰あるいは讖緯説(しんいせつ)を利用して革命し政権をとったのが則天武后である。妖僧薛懐義(せつかいぎ)らに〈則天は弥勒仏の下生にして,閻浮提の主とならん〉の語句を含んだ《大雲経》を偽作させ,これにより周を建てた。…
※「則天武后」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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