我孫子村(読み)あびこむら

日本歴史地名大系 「我孫子村」の解説

我孫子村
あびこむら

[現在地名]住吉区我孫子一―五丁目・我孫子西あびこにし一―二丁目・我孫子東あびこひがし一―三丁目・杉本すぎもと一丁目・苅田かりた二―三丁目・同五丁目・同七丁目・同九丁目など

苅田かつた村の西に位置。地名は庭井にわい鎮座の大依羅おおよさみ神社の祭神建豊波豆羅別王の子孫依羅吾彦が居住していたことに由来するといい、字城之内しろのうちがその居住地跡という(東成郡誌)。依羅吾彦については「古事記」開化天皇段に「依網之阿古」とあり、「続日本紀」天平勝宝二年(七五〇)八月一六日条に「住吉郡人外従五位下依羅我孫忍麻呂等五人、賜依羅宿禰姓」とみえる。「摂陽群談」は「続日本紀」の記事を引用し、「吾彦、今我孫子に作る、孫の子を彦とするに因れり」としている。また「摂津志」は「吾孫子 或作吾孫」と記す。「依羅郷土史」は依羅ならびに吾孫の語源として依羅はヨセアミ(寄網)であり、吾孫はアミヒコ(網曳子)とする説を紹介しており、これらの名称が狩猟と関連するものではないかと推定している。なお古代の当地付近には依網よさみ屯倉が置かれており、さらに近世の村絵図からは条里制の遺構が確認できるという(依羅郷土史)

当地は古来住吉郡に属し、同郡大羅おおよさみ(和名抄)に含まれたと推定される。中世には荏胡麻商人がおり、大山崎油神人と紛争を起こしている。嘉慶二年(一三八八)三月五日の守護山名氏清奉行人連署奉書(離宮八幡宮文書)に「摂津国我孫子住人法師太郎・同国山内住民四郎太郎并喜連内四郎男、号住吉社御油神人、立置油木、致荏胡麻油等之新儀交易云々」とあり、守護は大山崎油神人の特権を認め、当地の油商人に対して油を絞るための油器の破却と活動の停止を命じている。


我孫子村
あびこむら

[現在地名]我孫子市我孫子・本町ほんちよう一―三丁目・白山はくさん一―三丁目・みどり一―二丁目・寿ことぶき一―二丁目・さかえ並木なみき五―九丁目・いずみ船戸ふなと一丁目・台田だいだ一丁目・つくし一―二丁目・同七丁目など

手賀てが沼北縁の台地上に立地し、水戸道沿いに集落が形成され、宿継立場であった。鎌倉期より相馬そうま御厨のうちとして「あひこのむら」などとみえる。地名は吾彦・安孫子・阿孫子・阿比子・網引などの表記があり、古代アビコの姓をもつ氏族が住していたとも、香取海または外洋に通じていた手賀沼で漁を行った漁民の集住地であったことに由来するともいわれる。元禄一四年(一七〇一)の我孫子宿源兵衛等嘆願書(小熊家文書)には阿孫子町とみえる。寛永二年(一六二五)の旗本大沢正次への知行宛行状に阿孫子村として、高二一二石余。同じく三宅康政への宛行状には阿飛子村とあり、高四一石余。寛文五年(一六六五)の安孫子村検地帳(小熊家文書)によれば、市右衛門組下は田方一〇町五反余・畑方九町九反余で分米一四五石余、石盛は上田一三より三ツ下り、上畑八より二ツ下り。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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