日本歴史地名大系 「才田村」の解説 才田村さいだむら 石川県:金沢市旧河北郡地区才田村[現在地名]金沢市才田町八田(はつた)村の北東、森下(もりもと)川河口左岸に位置。犀田・崎田とも記した。地名は河北潟に突き出した沖積地であったことにちなむという(河北郡誌)。「源平盛衰記」巻二九によれば、寿永二年(一一八三)五月、倶利伽羅(くりから)へと向かう木曾義仲追討の平氏の軍勢七万余が井家(いのいえ)・津播多(つばた)(現津幡町)から「大庭、崎田、森本」まで連なっていたという。本泉(ほんせん)寺蓮悟(蓮如の七男)が長享―延徳(一四八七―九二)頃当地に「崎田」坊を開いたが、享禄の錯乱で焼失した。当地の明善が馳走して建立したものという(蓮如上人塵拾鈔)。「天文日記」天文一一年(一五四二)五月二三日条に、直参衆で前専乗坊下の「犀田西了」が本願寺に上山して三十日番衆の当番を勤めている。なお「大乗院寺社雑事記」明応四年(一四九五)二月一一日条に春日社権預辰市祐梁の代官「佐田」(佐比田)某が小坂(おさか)庄を違乱したことがみえ、翌五年一一月条に庄民によって打殺されたことが載る。 才田村さいたむら 福岡県:嘉穂郡嘉穂町才田村[現在地名]嘉穂町才田現嘉穂町域の北西部、遠賀(おんが)川の支流千手(せんず)川の中流域に位置し、北は上臼井(かみうすい)村(現碓井町)と久郎原(くろうばる)村、西は穂波(ほなみ)郡内山田(うちやまだ)村(現桂川町)。村内を千手川の支流東千手川などが流れる。集落は上才田(かみざいた)・久保田(くぼた)・西才田・枝国(えだくに)・長谷(はせ)・迎原(むかえばる)・恵良にある。千手川に沿って麦田、枝国から泉河内(いずみごうち)村猪鹿(とろく)に向かう辺りに水田がある(「郷村鑑帳」秋月郷土館蔵)。「続風土記」は九郎原村を枝村とする。慶長石高帳に「田村」とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高一千七三六石余、うち大豆二二三石余。同年の嘉麻郡才田村本田畠新田畠検地帳(九州文化史研究所蔵秋月黒田家文書)がある。 才田村さいだむら 大阪府:池田市才田村[現在地名]池田市鉢塚(はちづか)一―三丁目・旭丘(あさひがおか)一丁目・緑丘(みどりがおか)一―二丁目・井口堂(いぐちどう)一―二丁目・八王寺(はちおうじ)一―二丁目・荘園(そうえん)一―二丁目池田村の南東に位置し、五月(さつき)山南の台地から平地に移る地にあたる。村内を能勢(のせ)街道が通り、集落は南の尊鉢(そんぱち)村と連なる。古くは尊鉢村の小村で、慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に「尊鉢村・出在家村」とある出在家村が当村のことと思われる。元和初年の摂津一国高御改帳でも村名はみえないが、尊鉢村の旗本中山猪右衛門・同太田次郎左衛門の相給地三〇〇石が、当村分と思われる。この相給地は寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では幕府領となっているが、「小村一ツ有」とみえるのみで村名はない。 才田村さいだむら 福岡県:嘉穂郡稲築町才田村[現在地名]稲築町才田平(ひら)村の西に位置し、西は才田川を境として漆生(うるしお)村など。「続風土記」・天保郷帳などは平村の枝郷とする。慶長石高帳に才田村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高七一石余、うち大豆五石余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by