靖国神社および護国神社の旧称。1862年(文久2)福羽美静(ふくばびせい)(1831-1907)らが討幕運動で非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山(りようぜん)にまつり,63年八坂神社境内に小祠を建立したのが最初である。討幕諸藩でも招魂慰霊がなされ,長州藩では64年(元治1)に藩主により山口市赤妻に設置され,慶応年間十数ヵ所に増加した。68年(明治1)5月太政官布告で霊山にペリー来航の〈嘉永癸丑〉(1853)以来の〈国事殉難者〉の招魂場を設置してより,諸藩でも〈旌忠社(せいちゆうしや)〉等の名称でそれぞれに設置。68年6月江戸城内で戊辰戦争戦没者の招魂祭を,7月には京都河東操練場で招魂慰霊の祭典をそれぞれ執行した。大村益次郎の尽力で69年に勅命により東京招魂社を九段坂上に設置し,鳥羽・伏見より箱館戦争にいたるまでの戊辰戦争戦没者を合祀した。79年東京招魂社は別格官幣社靖国神社となる。官祭招魂社は,各藩ごとのもので,74年の内務省達で官費支給を受け,山口,鹿児島等の討幕諸藩を中心に71年までに多くが設立されていた。私祭招魂社は74年以後が大部分である。これら地方招魂社は,旧藩域を中心にまつったもので,強い旧藩の郷党意識にささえられていた。ちなみに愛知県名古屋の官祭招魂社(現,愛知県護国神社)は,尾張藩士をまつった旌忠社にはじまったため,当初西南戦争の戦死者の分祀を〈土民〉のゆえに拒否した。かつ長らく尾張部出身者のみの合祀で,1926年まで三河部出身者は合祀されなかった。明治政府は,東京招魂社-靖国神社を頂点に,地方招魂社を系列化することで,天皇の下に民心を収斂させる場として招魂社を位置づけた。1939年地方招魂社は官私の別なく整理され護国神社と改称した。
→護国神社 →靖国神社
執筆者:大濱 徹也
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明治維新前後から国家のために殉難した人の霊を祀(まつ)る神社。当初は招魂場とよばれて各地に祀られていたが、1875年(明治8)招魂社の制が定められ、東京招魂社(後の靖国(やすくに)神社)を中心に整備されていった。1939年(昭和14)護国(ごこく)神社と改称。
[飯尾直樹]
幕末・維新期の国事殉難者とその後の戦没者を祭った神社。護国神社の旧称。維新のために殉難した死者を慰霊する目的で1864~67年(元治元~慶応3)に設けられた招魂墳墓・招魂場に由来する。68年(明治元)に太政官布告で国事のために死んだ藩士や一般人と戊辰(ぼしん)戦争の死者の霊を祭る祠(ほこら)が京都東山につくられ,この頃から諸藩にも招魂場が設けられるようになった。69年に東京九段に招魂社をつくり,鳥羽・伏見の戦から箱館戦争の戦死者を加えて社領を1万石とし,72年に本殿が竣工した。79年に東京招魂社は靖国(やすくに)神社と改称して別格官幣社に列した。地方の招魂社は1939年(昭和14)にそれぞれ地名を冠して護国神社と改称した。
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…東京都千代田区九段坂上に鎮座。1879年6月4日に東京招魂社を抜本的に改革,靖国神社と改称,別格官幣社に列せられた。嘉永癸丑(1853)以来の国事殉難者,戊辰戦争の戦没者に加え,西南戦争の戦死者をはじめ,以後日本の対外戦争における戦死者を〈靖国の神〉となして国家がまつったもの。…
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