日本大百科全書(ニッポニカ) 「掛川源一郎」の意味・わかりやすい解説
掛川源一郎
かけがわげんいちろう
(1913―2007)
写真家。北海道室蘭(むろらん)生まれ。第二次世界大戦終戦直後より、一貫して北海道の風土と社会的現実を取材し、表現した。中学生のころからカメラに興味をもち、撮影をはじめた。1935年(昭和10)千葉県立千葉高等園芸学校(現千葉大学園芸学部)を卒業後、東京の出版社誠文堂に入社し、雑誌『実際園芸』の編集記者兼カメラマンとして勤務。1937年、勤めを辞め室蘭へ帰郷、家業の薬局を手伝う。1943年、室蘭中学の生物の教諭となる。第二次世界大戦末期に伊達(だて)町(現伊達市)へ疎開。1946年(昭和21)伊達高等学校教諭となる。同年アマチュア写真サークル「伊達写真同好会」(のちに「フォトグルッペ噴火湾」と改称)を結成。戦後土門拳(どもんけん)が主唱したリアリズム写真の理念に共鳴し、不漁に苦しむ漁民らの姿を撮影。写真雑誌『カメラ』で1950年からはじまった土門を選者とする月例欄などへ熱心に作品投稿を続け、実力派のアマチュア地方写真家として知られるようになった。
1950年代から、北海道の先住民族アイヌの人々の暮らしや風俗習慣、伝統行事などを長期にわたり取材。全道各地にアイヌの長老(エカシ)を訪ね、教えを受けながら、貴重な記録写真を多数撮影する。また並行して50年代から、襟裳(えりも)岬の自然とその地の人々の姿や、第二次世界大戦末期の国策のため沖縄から北海道長万部(おしゃまんべ)町に開拓農民として移住した人々の戦後の暮らしとその変化の過程を、息ながく撮影し続けた。1964年、伊達町有珠(うす)の地でクリスチャンとして同胞への伝道に半生を捧げたアイヌ人女性バチラー八重子(1884-1962)の晩年の生活をドキュメントした写真集『若きウタリに』を出版する。さらに1970年ごろから、北海道電力伊達火力発電所の建設をめぐる地元住民の反対運動を10年余りにわたって追跡取材。1977年夏の有珠山噴火の後、自ら有珠山に130回以上登り、自然の変動のダイナミズムを撮影、79年に写真集『有珠山・噴火の軌跡』を出版。1991年(平成3)東川(ひがしかわ)町国際写真フェスティバル特別賞、95年北海道文化賞、99年文部省地域文化功労賞受賞。
[大日方欣一]
『『若きウタリに』(1964・研光社)』▽『『有珠山・噴火の軌跡』(みやま書房・1979)』▽『『大地に生きる――北海道の沖縄村』(1980・第一法規出版)』▽『『バチラー八重子の生涯』(1992・北海道出版企画センター)』▽『更科源蔵著、掛川源一郎写真『アイヌの神話――カメラ紀行』『アイヌの四季』(1967、68・淡交新社)』▽『峰山巌著、掛川源一郎写真『フゴッペ洞窟――謎の線画』(1983・六興出版)』