敵討襤褸錦(読み)かたきうちつづれのにしき

精選版 日本国語大辞典 「敵討襤褸錦」の意味・読み・例文・類語

かたきうちつづれのにしき【敵討襤褸錦】

浄瑠璃時代物三段文耕堂三好松洛合作。元文元年(一七三六大坂竹本座初演。歌舞伎の「非人仇討」を改作したもので、下の巻の大晏寺堤の場が名高く、歌舞伎に逆輸入された。

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改訂新版 世界大百科事典 「敵討襤褸錦」の意味・わかりやすい解説

敵討襤褸錦 (かたきうちつづれのにしき)

(1)人形浄瑠璃。時代物。3巻。文耕堂三好松洛の合作。1736年(元文1)5月大坂竹本座初演。寛文期(1661-73)の初世荒木与次兵衛に始まり享保期(1716-36)の初世姉川新四郎に継承された歌舞伎狂言《非人敵討(ひにんのかたきうち)》を浄瑠璃化したもの。備後藩中の春藤次郎右衛門・新七の兄弟が非人に身を落として父の敵をねらい,大和郡山で本懐を達するまでの経緯を描いた作品。寒さのために体を痛めて足腰の立たなくなった次郎右衛門が,親重代の名刀青江下坂を人々に示してその気概を表したり,就寝中を襲われて危うく返討に遭いかかったりするという見せ場に富んだ〈大安寺堤の段〉(下之巻)が名高い。なお,その場の初演者は竹本上総少掾(後の播磨少掾)だった。(2)歌舞伎狂言。時代物。(1)の人形浄瑠璃は1764年(明和1)9月に大坂中山文七座(角の芝居)で《織合襤褸錦(おりあわせつづれのにしき)》,同じく三枡大五郎座(中の芝居)で《礼服襤褸錦はれこそでつづれのにしき)》としてそれぞれ歌舞伎に脚色されている。前者の次郎右衛門役は初世中山文七,後者は初世三枡大五郎。この競演の結果は前者の方が好評で,以後それが定着していくこととなったが,文化年間ころからは《敵討襤褸錦》の外題でも行われるようになったものらしい。もっぱら〈大晏寺堤(だいあんじづつみ)の場〉が上演され,その《大晏寺》が通称ともされている。いったいに上方系の役者が得意とし,近代では初世中村鴈治郎の当り役となって〈玩辞楼十二曲〉の一つに選ばれた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「敵討襤褸錦」の意味・わかりやすい解説

敵討襤褸錦
かたきうちつづれのにしき

浄瑠璃義太夫節(じょうるりぎだゆうぶし)。時代物。3段。文耕堂(ぶんこうどう)・三好松洛(みよししょうらく)合作。1736年(元文1)5月、大坂・竹本座初演。荒木与次兵衛や姉川新四郎の演じた歌舞伎(かぶき)狂言『非人の仇討(あだうち)』(1664。福井弥五左衛門作)が評判になったので、これを浄瑠璃に仕組んだもの。下の巻「大晏寺堤(だいあんじづつみ)」が眼目。春藤次郎右衛門(しゅんどうじろうえもん)は父の仇(あだ)須藤六郎右衛門と彦坂甚六を尋ねて流浪するうち足が立たなくなり、弟新七とともに大晏寺堤の非人小屋に住む。新七の留守中、高市(たかいち)武右衛門が加村宇田右衛門とともに刀の試し斬(ぎ)りにくるが、次郎右衛門の大望を知り、思い直して帰る。しかし、加村は須藤・彦坂の味方であったので、2人を手引きしてふたたび小屋を襲う。春藤は深傷(ふかで)を負うが、おりから帰ってきた新七と高市の助力により本懐を遂げる。敵討の悲惨な面を描き、後世の『天下茶屋(てんがぢゃや)』に影響を与えた佳作。歌舞伎にも逆輸入され、とくに春藤が高市・加村に仕込杖(しこみづえ)の青江下坂(あおえしもさか)の刀を見せて気概を示すところが中心。なお、人形浄瑠璃では、春藤たちが仇討に出立する中の巻「春藤屋敷」を上演することもある。

[松井俊諭]

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「敵討襤褸錦」の解説

敵討襤褸錦
かたきうち つずれのにしき

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
作者
松田文耕堂 ほか
補作者
市岡和七 ほか
初演
文化6.8(大坂・嵐座)

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世界大百科事典(旧版)内の敵討襤褸錦の言及

【文耕堂】より

…初期は長谷川千四との合作が多く,30年の《三浦大助紅梅靮》,同じく《須磨都源平躑躅(すまのみやこげんぺいつつじ)》,31年9月の《鬼一法眼三略巻(きいちほうげんさんりやくのまき)》,32年9月の《壇浦兜軍記(だんのうらかぶとぐんき)》などがあり,現在も人形浄瑠璃,歌舞伎ともに上演されることが多い。ほかに,三好松洛との合作として36年(元文1)5月の《敵討襤褸錦(かたきうちつづれのにしき)》,37年1月の《御所桜堀川夜討(ごしよざくらほりかわようち)》,38年1月の《行平磯馴松(ゆきひらそなれまつ)》がある。竹田出雲との合作には,38年8月《小栗判官車街道(おぐりはんがんくるまかいどう)》,39年4月の《ひらかな盛衰記》,40年7月の《将門冠合戦(まさかどかむりがつせん)》などがある。…

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