新見村(読み)にいみむら

日本歴史地名大系 「新見村」の解説

新見村
にいみむら

[現在地名]新見市新見

高梁たかはし川の左岸、現新見市の中心部に位置する阿賀あが(英賀)郡の村。北は高尾たかお村・下熊谷しもぐまたに村・上熊谷村、南は唐松からまつ村・正田しようでん村、西は高梁川を挟んで金谷かなや村。地名は古代の哲多てつた新見郷(和名抄)、中世の新見庄に関係するが、新見郷・新見庄とも同川右岸に比定される。高梁川の流路変更による郡域の変化を別にすれば、英賀郡哲多郡の境は古代より一貫して高梁川であったと考えられ、当村域も古代より英賀郡であったとみられる。英賀・哲多両郡地域の代表的な地名新見が、近世以降両郡の中心地となった当地の地名として定着した可能性が高い。正保郷帳作成段階には哲多郡西方にしがた村の枝郷に新見村があることが留意される。当地高梁川沿いの三日市さんがいちは川湊集落・市場集落として発展、同所を中心とした町場は新見町とよばれていた。元禄一〇年(一六九七)新見藩が立藩され、藩主の館が諏訪すわ(現城山公園)に置かれたため、以後新しく町場が開かれ、旧来の町場とともに新見町を形成して備北の一中心地となった。なお三日市は新見庄の三日市庭の系譜を引くと考えられ、高梁川の氾濫・河道改修により左岸に位置することになったものとみられるが、位置の移動の可能性も指摘されている。

寛永備中国絵図の阿賀郡に村名がみえ、松山藩(池田長常)領六四三石余・雲護うんご(雲居)寺領一〇石。正保郷帳では松山藩(水谷勝隆)領六五八石余・雲居寺領一〇石。

新見村
にいのみむら

[現在地名]智頭町新見

中田なかだ村の西に位置し、新見にいみ川流域の平野部に集落が発達する。もとは新野見村と書いたが、元禄郷帳・元禄国絵図作成に際して新見と改められた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。現在はニイミともいう。地名の由来はかつて当地が野見宿禰の領地であったからとか、穂見ほのみ(本野見)村より移住してきた人々によって新たに開かれたからともいわれる(八頭郡誌)。なお新見川は宇波うなみ村の堂敷どうじき(堂鋪)峠下に源を発し、口宇波くちうなみ村で白玉しらたま川、同村出合であい波多はた川、中田村惣地そうち川を合せ、智頭宿で土師はじ川に注ぐ。直径一三メートルほどの富沢とみざわ古墳(円墳)がある。築造には花崗岩などの割石を用い、横穴石室を有し、周溝も残っている。

「因幡民談記」「因幡志」、因伯古城跡図志(県立博物館蔵)などによると、当地には草刈氏(草苅)氏の居城と伝える淀山よどやま城があったという。草苅氏系譜(閥閲録)によると同氏は藤原秀郷の分れで、寛元年中(一二四三―四七)基近の代に陸奥国紫波しわ草苅くさかり(草刈)(現岩手県紫波町)の地頭職を得て同所に下り、名字の地とした。基近の子孫貞継は足利尊氏に従って戦功をあげ、恩賞として智頭郡を賜り、暦応元年(一三三八)因幡に下向した。その後貞継は淀山城を築いて累代の居所とし、貞和年中(一三四五―五〇)には美作国青柳あおやぎ(現岡山県加茂町)などの地頭に補任されたという。貞継の子孫衡継のとき作州に移り、天文二年(一五三三)に築いた高山こうやま(矢筈山城ともいう。現加茂町)を本拠としたという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報